民間伝承一覧

記紀等、他の歴史書にはいっさい記されていない史実が、民間伝承として独自に伝わっている場合がある。
その中には、実際にその地で起きた出来事が現地で伝えられ、それがホツマツタヱの記事内容と合致する場合と、記紀等では知られていないホツマツタヱの記述自体が独自に伝承されたと考えられる場合がある。中でもホツマツタヱの隠語が伝わったものが多いのは注目に値する。

なお、このページでは、ホツマツタヱの記述内容と合致する中国の民間伝承についても取り上げる。

国内の民間伝承

中国の民間伝承


神の使い

神の使いとして知られる動物たちの多くは、女王連合における連合相手を示すホツマツタヱの隠語が伝わったものである。

稲荷神社の狐
狐とは、中部九州に渡来した「キ」のウヒチニの子孫を中心として、東九州にいた渡来王族「ク」をも含めた九州王権の中心となる諸王の隠語。ホツマツタヱでは、キクはハタレ(反乱者)として記され、「三つ狐」とはアマテル、イフキトヌシ、ソサノヲのことである。
一方、稲荷(カダ、ウケノミタマ)とは山陰王権のことで、ホツマツタヱには、山陰を脅かした九州王権に対して寛容な態度をとったことが記されている。その上で「九州は山陰との連合を尊重する」という意味で「諸狐ウケノミタマを守らせよ」と記されたことが、民間に伝わったものであろう。
また、ホツマツタヱには「鼠をば油に揚げていとふべし」「カダマロ投げる揚げ鼠キク民奪ひ貪るを」とあり、鼠は「根住み」で根国ネノクニのこと、「揚げる」とは西山陰から日田玖珠に移したことを表している。この「狐が揚げ鼠を貪り食う」という話が「狐に揚げ鼠を供える」という習慣につながったものと考えられる。
なお、現在の稲荷神社はウカノミタマ(卯川のオオトシ)を祭神とするが、ウケノミタマと混同したものであろう。

熊野三山の烏
烏は、クマノクスヒ(アメワカヒコ)が招き、ホノアカリが白庭山(有明海)で見かけるが、ふたつの場面に共通する人物はタチカラヲの子イワマド(トヨマド、三島ミゾクイ)である。ホノアカリはその後イワマド(トヨマド)の娘ハツセ姫と婚約した。
熊野のアメワカヒコにとって、イワマドは自らが大王候補となった時の並立連合の大王候補である。
なお、イワマド(三島ミゾクイ)の娘ハツセ姫は、ホノアカリとの婚約が破棄された後、ツミハと結婚する。ホツマツタヱはそのことを「烏だも 良きいお受けて 喜べり」と記す。「良き魚」とは新海洋王サルタヒコの子ツミハのことである。

松尾神社の亀
亀は在来海洋王「住吉」の嫡系の隠語である。
一方、松尾神社の祭神オオヤマクイはアマノコヤネの航海を支えた新海洋王サルタヒコである。
サルタヒコの娘ウケステメは、住吉カナサキの嫡系タケミカツチの男系が断絶したことで嫡系を継承することになったハテスミと結婚し、新海洋王連合を形成した。
なお、ハテスミの長男タケスミと長女トヨタマ姫の子孫は「鴨」、二女オトタマ姫の子孫は「鰐」と名を変え、ハテスミの「亀」はトヨタマ姫とニニキネの子イナイイが継承した。
※ホツマツタヱは、亀、鴨、鰐を船の種類とするが、攪乱の一種である。≫ホツマツタヱ序に暗号あり

八幡宮の鳩
「鳩」はアメワカヒコの葬儀に「尸者ものまさ(死人の着る衣服で弔問者に会う人)」として登場するが、死人と間違われた双子の弟タカヒコネのことである。一方、「八幡」はタカヒコネとアメミチ姫(ヨト姫)の間に生まれた四人の女子の子孫にあたる八人の女子のことである。
八幡宮の主祭神・応神天皇は後世のものであり、もともとの祭神はヒメカミとされる。海洋王の女子は本来女王の資格を持たないため、「名無し」とされたり、単にヒメカミと呼ばれたりした。したがって、祭神のヒメカミはその起点となったアメミチ姫のことであろう。ここでは神と神の使いとの関係は連合相手ではなく、女王とその婚姻相手という関係である。
なお、鳩はもともと鷹だったという説もあるようであり、その場合の「鷹」はタカヒコネを指す隠語であった可能性がある(ホツマツタヱには「鷹」は登場しない)。

春日大社の鹿
鹿は、最高位の大王(鏡)の連合相手(剣)の隠語である。男鹿、小男鹿とも記される。
春日大社の祭神のひとりアマノコヤネも鏡臣であったため、その連合相手は鹿であった。
なお、ヤマトタケ説話に登場する白鹿は、アマノコヤネの孫アメタネコに娘ウサコ姫を嫁がせたシイネツヒコのことである。※「白」はアマノコヤネの符牒であり、前妻との子はシラタマ姫、后タカ姫は「神の白石」である。

衛門三郎伝承(石手寺刻版)

「桃太郎」の桃が流れてきた川に比定される御坂川沿いに伝わる伝承。四国遍路の始まりとされる。≫wikipedia
弘法大師に非礼を働いたために、八人の子どもを毎年一人ずつ亡くした:「子どもが毎年一人ずつ死んでいく」ということで、その場所で過ごした年数を伝えるというのは、ホツマツタヱが八岐大蛇神話で用いた手法である。≫暗号「八岐大蛇」 ツミハが妻子とともに青垣殿(高知県仁淀川町橘)にいた期間は8穂(4年間)であろう。
※丹後国風土記逸文の浦嶼子は、逆に「毎年一人ずつ子どもが生まれて15人いる」という形で、ウカヤが生まれてからカゴヤマに発見されるまでの期間が15年だったことを伝えている。≫丹後国風土記逸文・浦嶼子
八人の子どもは五男三女:記紀はアマテルとソサノヲの誓約によって生まれた子どもを五男三女とする。ホツマツタヱではアマテルには12人の后の間に五男三女がおり、ソサノヲにも同じように五男三女があったことになっている(実際はアマテルの子は男子二人、ソサノヲの子は二男三女である)。つまり、五男三女の子があるというのは王の象徴なのである。
弘法大師を求めて四国を巡礼した:ツミハは土佐の青垣殿以降、阿波の鳥羽(西条市楠、永納山城神籠石あり。当地の楠神社の祭神にはサルタヒコと御井神=カゴヤマが名を連ねる)、伊吹宮(愛媛県西条市・旧橘村、南側に伊吹山あり。伊予一宮の祭神オオヤマスミは、オオヤマクイ(ツミハの父サルタヒコの別名)が誤って伝わったものか)、伊予の天山(松山市立花。天山の比定地・勝山には三島大明神があったとされる。三島はツミハの后の父親ミシマミゾクイ)、阿波の阿方(今治市、阿方地名の近くに立花地名あり)と点々と居場所を移しているようである(三条と鳥羽は一寸法師に記される地名)。このことが四国巡礼という形で伝わったものと考えられる。

四十二の二つ子

数えで、父親が四二歳の時に二歳になる男児。すなわち、父親が四一歳の時に生まれた男児は親を食い殺すという言い伝えがあり、その災いをのがれるために仮に捨てて他人に拾わせる風習があった。女児の場合はかえって吉とした。(精選版・日本国語大辞典)

ホツマツタヱには後にワカ姫となるヒルコが、イサナギが41歳、イサナミが30歳の時に生まれたので、このままでは父親(男子の場合は母親)に災いがふりかかるとして、3歳にならないうちに捨ててカナサキが拾って育てた、とする一節がある。≫ホツマツタヱ原文
男女の違いについては異なる点もあるが、数字は完全に一致している。
ただし、ホツマツタヱは二倍年暦なので、実際はワカ姫が生まれた時イサナギは数えで21歳、イサナミは15歳半で、ヒルコが捨てられたのは2歳になる前である。
なお、ワカ姫がカナサキのもとで育てられたとするのは、この時点で結婚後5年がたっていた4代女王ココリ姫に女子がなく、このままではワカ姫が女王位継承権一位になることがわかっていたため、その処遇について九州と他の地域の間をとりもっていた海洋王カナサキに全面的に委ねられていたことを示すためだと考えられる。

三大弁天

神道としての三大弁天は、竹生島ちくぶしま神社、江島神社、厳島神社である。

ホツマツタヱは、いわゆる「宗像三女神」であるソサノヲとハヤコの間に生まれた三つ子(ホツマツタヱは父親をアマテルと偽装)を以下のように記す。

ハヤコが三つ子 はタケコ 沖津島姫オキツシマヒメ はタキコ 江島姫ヱツノシマヒメ はタナコ 厳島姫イチキシマヒメ(6)
人成りて 沖津島オキツシマ 相模江島サガムヱノシマ 厳島イツクシマ 身から流離う(7)
たけに生まるる タケコ姫 多賀に詣でて 物主が たちに終われば ススキ島 オモムロ納め 竹生神たけふかみ(28)

それぞれの晩年の宮の比定地は、タケコの多賀は福岡県糸島市・平原遺跡、沖津島(竹生島)は現在は糸島半島とつながっているがかつては島だった毘沙門山、タキコの相模江島はやはり当時は島だった佐賀県小城市池上・牛尾山、タナコの厳島は福岡県北九州市小倉北区の到津~宇佐町~山門町周辺である。
なお、タケコの沖津島の比定地は毘沙門山という名をもつが、毘沙門天は弁財天の夫であり、前妻(吉祥天)がいた、という説がある。これは、タケコの夫オオナムチに前妻(古事記によればヤガミ姫)がいたことと合致する。

右近の橘・左近の桜(紫宸殿)

京都御所の内裏の正殿「紫宸殿」の南庭には西に橘、東に桜が植えられている。

これは、ホツマツタヱの「の殿に 橘植えて 橘宮カグノミヤ に桜植え 大内うおち宮」という記述に対応している。
「南の殿」とはミカサフミが「君は都を 国のに 遷すは八民 ううくため オモイカネして 造らしむ 成りて伊雑イサワに 宮遷し」という暗号を組み込んでいる伊雑宮のことでアマテルの宮、「東」とは記紀が「筑紫の日向(=東)」という暗号を組み込んでいる阿波岐宮のことでセオリツ姫(と父サクラウチ)の宮である。(2023年4月20日更新)

紐解き(七五三)

七五三において「紐解き」と呼ばれる儀式が行われる地域がある。女子が付け紐の着物を卒業し、大人と同じ幅の広い帯を結び始める儀である。

この儀式は、ウズメの「裳紐下げ」という記述と合致している。
ホツマツタヱは、ウズメの「裳紐下げ」という行動をサルタヒコとの出会いの場面に記しているが、記紀が修正するように実際には皆既日食のあった前227年のことだったとすれば、ウズメは7穂(4歳)である。ホツマツタヱは攪乱のために、幼児期の「紐解き」の儀式を成人女性による性的アピールにすり替えたのである。
なお、全国的には紐解きを7歳で行うところが多いが、4歳で行う地域もあるのは興味深い事実である。

鹿島踊り

茨城県鹿嶋市の鹿島神宮に端を発し、千葉県、及び神奈川県西部から、静岡県伊豆半島東海岸にかけてを中心に分布する、各神社の例祭において青少年もしくは成人男子達(茨城および千葉の一部地域においては女子・女性達)によって踊られる集団民俗舞踊。(wikipedia

ホツマツタヱの天岩戸神話には「諸守が岩戸の前」で踊った「常世の踊り」として「カシマトリ」の記述があり、一般に「姦踊り(にぎやかな踊り)」と解釈されるが、これが「鹿島踊り」として民間に伝わったものと考えられる。
カシマトリは「西洲鶏」と「鹿島取り」の掛詞で、「中国の王」すなわちアマノコヤネ(徐福)がタケミカツチ(鹿島神宮の祭神)が支配していた鹿島の地(有明海西岸)を奪い取ったということを伝える暗号である。≫暗号「常世の踊り・姦踊り」
民間伝承においては、東の海上から弥勒船がやってくるという民間信仰から発生した「弥勒踊り」と混合・融合しているケースが多くみられるが、鹿島の地(有明海西岸)は東に海があり、そこに外来王(アマノコヤネ)がやってきたことが不完全な形ではある伝わった可能性がある。
また、春日大社に踊りを奉納したのが起源と伝える地域もあり、「カシマトリ」がアマノコヤネ(西洲鶏)に関わる暗号であることが解読された上での伝承である可能性もある。
なお、鹿島踊りは「キノミヤ信仰」の分布とも重なっているが、タケミカツチにとっての「カシマ(西洲)」はアマノコヤネにとっての「キシマ(東洲)」であり(佐賀県鹿島市の北側には杵島郡がある)、「東の宮」はアマノコヤネの宮の別称であろう。「キノミヤ」の祭神は五十猛であることが多いが、日本書紀が記す五十猛とはアマノコヤネのことである。また、祭神をスクナヒコナとするところもあるが、スクナヒコナもアマノコヤネの別名である。

熊野牛王くまのごおう

熊野三山から出す護符のこと。描かれるのは「烏」であり、それがなぜ「牛王」と呼ばれるかは伝わっていない。

ツノガアラシト説話の「神の白石」の挿話において、熊野の「那智の若神子わかみこ」であるアメワカヒコが「牛」に喩えられていることが、断片的に伝わったものと考えられる。≫暗号「神の白石

牛頭ごず天王てんのう

祇園精舎の守護神であり、ソサノヲの本地ともされる。

牛頭天王はソサノヲの嫡系子孫ホノススミ(海幸山幸神話の海幸)である。
『祇園牛頭天王御縁起』に記される「蘇民将来」の説話の内容は、ホノススミの事績と合致する。
なお、ホノススミが「牛頭天王」と呼ばれるのは、ツノガアラシト説話の「神の白石」の挿話におけるソサノヲの長男アメワカヒコの隠語が「牛」であることと無関係ではないだろう。≫暗号「神の白石

蘇民将来説話
「牛頭天王が旅の途中で出会った兄弟のうち、裕福な弟は宿を求めると断ってきたが、貧乏な兄は宿を貸して歓待した。そこで願い事が叶う牛玉を授け、兄(蘇民)は富貴の人となった」

女王連合の再編の中でホノススミはニギハヤヒ(ホノアカリの二男、つまり弟)との連合を望んだが叶わず、四国に配流されていたタケフツ(父カゴヤマはホノアカリの長男、つまり兄)と連合することにした。ところが、タケフツは九州王権主流派の要請に応じてホノススミの娘ミチツル姫の身柄をウツキネ(シイネツヒコ)に譲り渡し、ホノススミの野望は潰えた。
この一連の出来事をタケフツの立場から描いたのが『一寸法師』である。タケフツが退治した「鬼」は「牛頭天王(ホノススミ)」であり、手に入れた「打ち出の小槌」が「牛玉(ミチツル姫)」である。ホノススミを失脚に追い込んだタケフツ(一寸法師)はその功績によって復権し、タケフツの女子イヒカリ姫は女王に、男子タカクラシタも最終的には大王となった。なお、タケフツの父カゴヤマが浦島太郎である。≫「一寸法師」 ≫「浦島太郎」

なお、蘇民の「蘇」を日本書紀が記すソサノヲの地「曽尸茂利そしもり」と結びつける説があるが、これは半分正しい。ホツマツタヱによれば、ソシモリは「弓削ゆげ(大分県日田市・刃連町ゆきいまち地名あり、和名類聚抄に叉連ゆぎあみ地名あり)」にいた。漢字を当てるなら「蘇方ソシもり」であり、蘇方ソシとは火山の方角という意味で、東の方角(九州東岸)の「東方国キシイクニ」、西の方角(福岡平野と筑後平野)の「西方国ツシクニ(これが後にツクシに転訛したものとみる)」に対する概念であったと考えられる。蘇民の蘇が蘇方の意味であれば、タケフツは四国から日田盆地に移っていたことになる。『一寸法師』でも妻とともに旅に出た一寸法師が不気味な島に着いて、そこで鬼に出会ったとある。タケフツの子タカクラシタは神武東征の際に高倉山の麓にいたとされるが、高倉山は磐割(日田盆地から筑後平野に出る夜明渓谷)の近くにあるので、その記述とも矛盾しない。なお、タカクラシタの説話の直後に登場する八咫烏(タケスミ)は玖珠盆地にいた。日向(熊本市・日向崎地名あり)から東を回って飛鳥(福岡県久留米市・高良山神籠石)に向かう経路としては順序が逆であるが、これは攪乱であると考える。

富士八海(富士講)

富士講の巡礼地「富士八海」は、富士五湖(本栖湖、精進湖、西湖、河口湖、山中湖)と、明見湖あすみのうみ四尾連湖しびれのうみ須戸湖すとことされる。
富士講とは戦国時代から江戸時代初期にかけて始まったものである。

ホツマツタヱには、信濃(島原半島山麓部)の伊豆浅間峰(雲仙岳)の山腹に、次の八つの湖があったと記される。

は山中と 東北きねアス は河口と 北西ねつ本栖 西西湖ニシノウミ 西南つさ清湖キヨミ 四尾連湖シビレウミ 東南きさは須戸

伊豆浅間峰の八つの海と富士八海は、精進湖以外の七つの湖の名が合致しているだけでなく、方角についても本栖湖と四尾連湖が入れ替わっている以外はほぼ合致していると言ってよい。
なんらかの形で「伊豆浅間峰の八つの湖」の一節が伝わっていて、富士講に取り入れられたと考えられる。

なお、ホツマツタヱの八湖は、イサナギ・イサナミの子孫の8つの系譜を表している。≫暗号「富士八湖」

嬉野温泉の「白鶴」

神功皇后が三韓出兵の帰途に嬉野に立ち寄り、川中に疲れた羽根を浸していた白鶴が元気に飛び立つ様子を見た、という伝承である。それが温泉発見につながり、神功皇后が「あな、うれしの」と言ったという地名命名譚も付属している。

この伝承は、ホツマツタヱの「トヨタマ姫が分土ワケツチの北のミツハメの社で静養した」という説話に対応している。
分土ワケツチとは地峡のことで、ここでは諫早地峡のことであり、ミツハメの社はミツハメを祭神とする嬉野市塩田町の丹生たんじょう神社に比定できる。
ミツハメはタカ姫の隠語(≫隠語「ミツハメ」)であり、ミツハメの社は夫アメワカヒコを暗殺で失ったタカ姫の蟄居先であろう。古事記にはアメワカヒコ(タカ姫の前夫)の葬儀でタカヒコネが喪屋(タカ姫)を蹴とばし、その喪屋が美濃に飛んで行ったという話が記されるが、丹生神社の周辺の地名は「美野」である。
静養した姫をトヨタマ姫とするのはホツマツタヱの攪乱で、トヨタマ姫の事績にはアマノコヤネの娘シラタマ姫の事績が融合されている。嬉野温泉に伝わる白鶴の「白」はアマノコヤネの、「鶴」はシラタマ姫の隠語であるから、現地には静養した姫の中にシラタマ姫がいたことが正確に伝わっていたということになろう。
なお、嬉野温泉中心地には豊玉姫神社(祭神トヨタマ姫)があり、こちらはホツマツタヱの記述に従っている。
ちなみに、タカ姫はシラタマ姫にとっては父アマノコヤネの後妻であり、つまり継母である。

童謡『浜千鳥』

「青い月夜の 浜辺には 親をさがして 鳴く鳥が 波の国から 生まれ出る … 親をたずねて 海こえて 月夜の国へ 消えてゆく」(作詞・鹿島鳴秋、1919年)

(参考)「ちんちん千鳥は 親ないか 親ないか」(作詞・北原白秋、1921年)

この作品における浜千鳥は、ニニキネによってその存在を秘匿され、母トヨタマ姫から引き離されて、叔母オトタマ姫に離島で育てられたウカヤフキアワセズの事績と合致している。
童謡研究者・池田小百合氏はその著書で「夜啼く千鳥の声は、親のない子が月夜に親を求めて探しているのだという昔からの言い伝えがあります」と述べている。参考にあげた北原白秋の作品が鹿島作品から着想を得たものか、同じ「言い伝え」から着想を得たものなのかは不明のようだ。
ホツマツタヱにおいては、「浜千鳥」は浮気の嫌疑をかけられたコノハナサクヤ姫の恨みを解くために夫ニニキネが送った歌の中に登場するが、その歌はニニキネが後妻にトヨタマ姫を娶ることになった経緯について伝える暗号となっている。浜千鳥がトヨタマ姫とホオテミの間に生まれた子ウカヤフキアワセズであることは、後世に「浜千鳥ゆくへも知らぬ」と詠われることや、万葉集などにおいて「千鳥」が天皇家(ウカヤフキアワセズの子孫)の隠語となっていることからも推測できる。が、このような「言い伝え」が存在することは、ウカヤフキアワセズの史実(母と引き離されていたこと)と「千鳥」を結びつける考えが民間にも伝わっていたことの証拠となろう。≫暗号「浜千鳥」
なお、鹿島鳴秋は友人の桑山太市朗を新潟県柏崎に訪ねた時にこの「浜千鳥」を作詞した。ウカヤフキアワセズが離島の壱岐から本土に戻った場所は当時の越(佐賀県唐津市)であり、その越地名が写された新潟県にその言い伝えが残っていたのだとしたら示唆的である。

わらべ歌『かごめかごめ』

「かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 八日の晩に 鶴と亀が滑った 後ろの正面だ~れ」

籠の中の鳥:鹿児島(籠=壱岐)に幽閉されていたウカヤフキアワセズ(千鳥)
八日の晩に:ウカヤフキアワセズがカゴヤマ(浦島太郎)によって発見されて8穂目(3年後)
鶴と亀が滑った:タマヨリ姫(鶴)とイナイイ(亀)が追放された
後ろの正面だ~れ:壱岐に追放されたイナイイの後ろの正面、すなわち、名古屋(東松浦半島)に配備されたのは大国主に任命されたトカクシである。≫フトマニ「ヲオレ

※トカクシは桃太郎であるから、「後ろの正面だ~れ」の回答は「桃太郎」ということになる。
※後半部が「鍋の鍋の底抜け 底抜いてたもれ」となっている別バージョンがあるが、「鍋」は博多湾の隠語であり(≫日本書紀)、博多湾の支配者「志賀守しかのかみ」イナイイのことである。底バージョンの場合は前半部に亀が登場しない。これは亀と鍋が同じ人物だからであろう。

わらべ歌『なべなべそこぬけ』

「鍋鍋底抜け 底が抜けたら帰りましょ」

前項『かごめかごめ』の後半部が独立したものと考えられる。
「底が抜けたら帰りましょ」というのは「大王イナイイが追放されたら、自分がその地位に就く」ということであり、「帰りましょ」で外向きになった後に、再び「帰りましょ」で内向きになるという遊びは、結局王位に就くことができずに再び配流されることになったカゴヤマの事績と重なる。

九頭龍くずりゅう

ホツマツタヱの「九頭大蛇こかしらのおろち」に対応した伝承である。

九頭大蛇こかしらのおろちは、北東部九州に現れて西北部九州から信濃(島原半島・雲仙岳山腹)に逃げ、馳せ帰った伊勢のトカクシ(信濃のタチカラヲ(タケミナカタ)の系譜を継承した)に退治されたように記される(実際は雲仙岳の噴火による火砕流であると考えられる)。≫ホツマツタヱ原文 ≫暗号「九頭大蛇こかしらのおろち
この「信濃でトカクシ(戸隠)が九頭大蛇こかしらのおろちを退治した」という記述が、戸隠神社における「地主神である九頭龍大神がタチカラヲを迎え入れた」という伝承になったものと考えられる。
なお、戸隠神社の祭神は、奥社タチカラヲ、中社オモイカネとなっており、トカクシがオモイカネ~タチカラヲの系譜を継承していることを正しく伝えている。特に、信濃諏訪に配流されたタケミナカタがタチカラヲであることは、古事記の暗号「タチカラヲは佐那々さなながたに坐す」(サナナは信濃の類音)で示唆されているのみであり、ホツマツタヱの暗号を解読した上での伝承か、この逸話を伝える別の歴史書があったか、どちらかということになる。

九頭大明神

上記、九頭龍伝承と関連するものとして、刺田比古さすたひこ神社(和歌山県和歌山市片岡町)に伝わる「九頭大明神」伝承がある。

刺田比古さすたひこ神社の祭神はミチヲミであり、トカクシの息子である。
本居宣長は刺田比古さすたひこを刺国若比売の父、刺国大神に比定しているが、正しい。つまりサスタヒコとはトカクシのことであり、サシクニワカ姫ミチヲミ姉弟の父親である。
トカクシの刺国は東松浦半島にあった。唐津市には佐志地名があり、佐志川上流の見借にはミルカシ姫伝承がある。関連する地名として名護屋(唐津市鎮西町に名護屋地名あり)、津島(同市・加部島?大島?)などもある。
また、息子ミチヲミの王都は吉備高島(武雄市北方町・椛島山遺跡に比定)にあった。「九頭大蛇こかしらのおろちが越の洞穴掘りぬけて信濃に出る」とするのはその場所を知らせるための暗号である。
実際、ミチヲミの王都比定地は、トカクシの唐津から松浦川を遡り、標高86mほどの谷中分水界を越えて武雄川を下れば着く場所にある。トヨタマ姫の説話の「朽木谷 西より南 山越えて」もこのルートを示すものと考える。
なお、類音にもとづくサスタヒコ=サルタヒコ説があるが、サルタヒコはトカクシの祖父にあたる。ただし、サルタヒコの子孫はすべてサルタヒコと呼ばれていた可能性もある。

白羽の矢と猿神退治

「生贄を求める神は求める対象とする少女の家の屋根に、白羽の矢を目印として立てた」とする伝承があり、早太郎伝承をはじめとする「猿神退治」伝承では、白羽の矢が立った家の少女をさらいに来るのは猿である。

ホツマツタヱにおいては、「白羽の矢が軒に刺さるとタマヨリ姫の月経が止まり男子を出産した」という説話に続いて、「母が出産直後に亡くなったイツセの乳母を探して、イワクラがタマヨリ姫を招くが承諾せず、ワカヤマクイが迎えに行ってようやく宮に上った」という説話が記される。
ホツマツタヱの白羽の矢神話は記紀には記されなかったが、民間伝承としてこの二つの説話が融合して、「白羽の矢が立って猿がさらいに来る」という説話になったものであろう。
興味深いのは、ワカヤマクイがサルタヒコ(その別名がオオヤマクイ)の系譜であることはホツマツタヱでは隠蔽されているにもかかわらず、民間にはタマヨリ姫を迎えに来たワカヤマクイがサルタヒコ(の子孫)であるということが知られていた可能性が高いという点である。

わらべ歌『あんたがたどこさ』

あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ センバさ センバ山には狸が居ってさ それを猟師が鉄砲で撃ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ うまさのさのさ~

「狸」はアマテルの子孫の隠語であり、熊本の山にいた狸はミケイリ(タケイワタツ)である。

※「それをちょいと木の葉で~」という一般的なバージョンに対して、「うまさのさのさ」というのは九州に伝わるものである。
※「馬」はアマノコヤネの子孫の隠語であるから、本来「狸が馬を食う」話だったと考えられる。なぜなら、ミケイリの孫タギシミミは「春日」を継承し、春日アメタネコは中臣となるからである。
※鉄砲は後世の武器であるから、中間部は本来別の展開だったものが誤って伝わったものとみる。


牽牛織女

中国から渡来した徐福(アマノコヤネ)と九州の女王タカ姫の結婚をめぐる史実が、中国で民間伝承として伝わったものである。

「織女」の語の初出は『淮南子えなんじ』(前139年成立)、「牽牛織女」の語の初出は『両都賦りょうとふ』(83年頃成立)とされる。なお、詳細な内容を持つものとして最古のものは、梁(502~557年)の殷芸『小説』とされ、簡単な内容のものには、後漢後期成立とされる「古詩十九首」其十「迢迢牽牛星」がある。
ホツマツタヱの後編(250年上梓)の34文のツノガアラシト説話の「神の白石」の挿話には、タカ姫の前の夫アメワカヒコを牛に喩える描写が出てくるが、すでに『両都賦りょうとふ』に牽牛が現れていることから、牛を前の夫アメワカヒコの隠語とするアイデアは中国から入ってきて、ホツマツタヱに記されたと考えられる。
なお、アメワカヒコが「牛」に喩えられていたことは民間にも知られていたようで、「熊野牛王」や、アメワカヒコの孫ホノススミの「牛頭天王」という形で後世に伝わった。≫「熊野牛王」 ≫「牛頭天王

『小説』原文:「月令廣義」七月令にある逸文
天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會

『小説』訓読文:「天の河の東に織女有り、天帝の女なり。年々に機杼の労役につき、錦の天衣を織り成す。天帝その独居を憐みて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命を下し、一年一度会うことを許す。」

天の河とは東シナ海のことで、河東はタカ姫のいた九州、河西はアマノコヤネの中国である。天帝とはアマテルのことと思われる(タカ姫の実父はオオナムチ)。「天帝がその独居を憐れむ」とは前の夫アメワカヒコが暗殺されて女王を廃位された後、美濃(佐賀県嬉野市塩田町)に蟄居していたことを、「機織りを廃する」とはアマノコヤネの中国への一時帰国に同行したことで九州には在来の血統の女王がいなくなったことを示す。「一年一度会う」というのは、当時の航海技術では東シナ海を安全に渡ることのできる期間が限られていて、タカ姫が先に九州に戻ってからアマノコヤネがそのあとを追うには、1年間待たなければならなかったことを指しているものと考える。

京劇の演目として知られる「天河配」には、次のような描写がある。

  1. 天帝は、天の女帝「王母娘娘おうぼにゃんにゃん」であり、織女は外孫女とされる:王母娘娘は西王母の俗称であるが、ホツマツタヱでは「西の母神」はサルタヒコの娘ウケステメである。
  2. 織女は水浴びをしている時に羽衣を隠されて、天に帰れなくなる:海を渡って中国に行ったため、九州での女王位はシラタマ姫に譲位しており、女王としては九州に戻れない。
  3. 男女一人ずつの子を生む:帰国後に女子フトミミと男子オシクモが生まれた。
  4. 飼牛から私の皮で靴を作って履けば天界に上ることができると言われ、飼牛が死んだ後に実際にそうする:暗殺されたアメワカヒコの后と再婚した
  5. 王母娘娘から、容姿を隠した七人の天女から織女を見つけることができたら許すという条件を出される:七人の女王候補がいる中で、タカ姫の地位を明確にする必要があった。

七人の天女の解釈
当時の連合は三女王連合並立制であり、女王擁立をめぐる混乱と収束に関わった女王候補は合計6人、タカ姫を入れれば7人となる。

  • 春日物主連合(アマノコヤネとミホヒコ):シラタマ姫
  • 海洋王連合(サルタヒコとハテスミ):ウケステメ
  • 九州嫡系連合(ホノアカリとアメトマミ):スガタ姫 ⇒イワナガ姫~イクタマヨリ姫(ミホヒコの後妻)
  • 九州傍系連合(ニニキネとタカヒコネ):アシツ姫
  • 旧海洋王(フツヌシ):アメミチ姫 ⇒ヨト姫(タカヒコネの後妻)
  • 復権が遅れた王(三島ミゾクイ=トヨマド):ハツセ姫 ⇒タマクシ姫(サルタヒコの子ツミハの后)

以上のように、中国にはアマノコヤネとタカ姫の一時帰国についての史実がかなり詳細に伝わっていたとみてよいだろう。特に京劇の演目となった「天河配」の細かい情報の正確性と、ホツマツタヱに通ずる隠語・隠文のあり方は注目に値する。
なお、「機を織る」を「女王位に就くこと」の隠語とするアイデアについては、九州のものが伝わったものと考えられる。

三壺さんこ(東方の三神山)

中国に伝わる神仙が住んでいるとされる海中の山のこと。
史記(前91年頃完成)の封禪書における三神山は「蓬莱、方丈、瀛州」であるが、拾遺記(4世紀)における三神山は「方壺、蓬壺、瀛壺」となっている。

これに対応するのが、ホツマツタヱの24文にある「二神の 国中柱 沖の壺 アマテル神の 日高見の 方竹宮の 中柱 方壺ケタツボの踏み 伊豆守の 原見端壺ハラミハツボは 四方八方の 中柱なり」という記述である。それぞれの比定地は、沖壺は博多湾の志賀島、方壺は北九州の足立山西麓、原見端壺は島原半島の原城跡である。いずれも国にとっての海の玄関口であると考えられ、「壺」とは港のことを指すと思われる。
『史記』巻百十八「淮南衡山列伝」には「徐福は三神山を求めて東方に船出した」と記されている。おそらくは、徐福(アマノコヤネ、伊豆守)によってその名が中国から持ち込まれ、九州の歴代の「中柱」に当てはめられた上で「壺」と呼んだものが、後に中国へと逆輸入されたものであろう。

なお、蓬莱にあたる原見端壺は「伊豆浅間峰」と呼ばれる雲仙岳の東南麓にある。伊豆浅間峰の名は後世に現在の富士山に写されたので、「蓬莱山は富士山のことだ」とする説はあながち間違いではないことになる。