新治宮の位置を考えるために参考とすべき記事はいくつかあります。
「志賀守方は まだ充てず 筑紫の宮に 移ります 埴を考えて 油粕 入れて糟屋の 埴充つる」(25)
「志賀」は現在博多湾に浮かぶ志賀島にその地名が残っていますが、倭名類聚抄にも「糟屋郡志珂郷」があるので、陸地側を指す地名だったと考えられます。「埴=羽が充つる」とは男子が生まれて男系断絶を逃れること、油粕はすでに指摘したようにアメミチ姫ですから、糟屋にいたのはタカヒコネ。逆に「まだ充てず」とされているのはホノススミです。この一節にも攪乱があり、新治にいたホノススミは卯川に移り、そこへタカヒコネが移ってきたです。ということは、糟屋も志賀も筑紫の宮もすべて新治を指しているということになります。
「相模を守れば 罪消えて また人成ると 尾を切れば 万のヲタウの 山ぞ箱崎」(28)
「二荒の 伊豆の守とて 六万年 経てまた元の 新治宮 伊豆大神の 殊大いかな」(21)
28文の一節は後世に九頭龍として伝わった「九頭大蛇」説話の一部ですが、21文の一節と同様タカヒコネ(伊豆の守)の事績です。相模は唐津湾と有明海を結ぶ舟運路の入口、相模の小野のことで、佐賀県武雄市橘町に比定できます。アマノコヤネ渡来時に諫早地峡(二荒)に配流されていたタカヒコネは、アマノコヤネ再渡来後に相模小野に移り、そこに六万年(7穂)いた後、雲仙岳の噴火で新治宮に移ったのです。その場所はこの一節では「箱崎」と記されています。現在は福岡市東区の地名となっている箱崎も戦前までは糟屋郡に含まれていました。
新治宮は、筑紫の糟屋の志賀の箱崎にあったのです。現在の箱崎は標高が低く、近年になってから陸地化したものでしょう。古代の箱崎は「宝満尾」と呼ばれる宝満山(御笠山)の尾根のことを指していたと考えられます。
そもそも「箱崎」の「箱」とは福岡平野のことです(日本書紀の熊鰐説話にも「御筥」として登場します)。福岡平野の形を箱に喩えて、その西縁を「箱根」、東縁を「箱崎」と呼んでいたと考えられるのです。宝満尾はまさに福岡平野の東側の縁にあたります。そして何よりも、その名もずばり宝満尾遺跡からは、九州王権が後に王の居場所に意図的に埋めたと考えられる前漢鏡が出土しているのです。
瑞穂宮がある箱根(やはり前漢鏡が出土した吉武高木遺跡)と新治宮がある箱崎は、針摺地峡に続く入江を挟んで向き合う場所にあり、ホツマツタヱはそれを「水際分かる」と表現したのでしょう。
なお、箱崎地名は福岡に残りましたが、箱根地名は東国の伊豆に写されて、福岡からは痕跡が消えてしまいました。
「伊豆ヲバシリの 洞穴に 自ら入りて 箱根神」(24)
すでに引用したこの一節には、「伊豆(雲仙岳)」の北麓の諫早地峡にいたタカヒコネが箱崎(福岡市東区)に移って守っていた針摺運河を通って、ニニキネが「箱根(福岡市西区)」に移ったということが記されているのですが、これだけを読むとたしかに伊豆に箱根があるように読めます。
また、新治は筑波、伊佐、那珂、多賀とともに茨城にその地名が写されましたが、箱崎、箱根、瑞穂は茨城には写されなかったようです(現在の稲敷郡河内町に旧瑞穂村がありますが、太平洋戦争中に合併で生まれた新しい地名とのことです)。
奈良政権の地名偽装プロジェクトを主導した人々が、この一節を誤読していたとは思えません。一般の人々の誤読に合わせて、地名偽装をコントロールしていたのではないか。そんなふうに考えます。
X 2024.4.20 21:00