#440 誕生サイクル30/32穂の大原則

誕生後28穂(14歳半)で元服、元服と同時に結婚し、翌年に第一子、翌々年に第二子が生まれる。この大原則は暗号解読の鍵の一つになっています。そのため、もしその原則から外れる場合には、どこかにそのことが記されています。
オオトシの孫タマネ姫の元服年とオオトシの系譜統合が1穂ずれていることについても、どこかにヒントが記されているはずです。
オオトシの男子カツテ(諱ヤスヒコ)は、「子の誕生」をめぐる説話にたびたび登場します。

「やすやすと 桜の母の 緑子を カツテに掛けて いでや生ません」(14)

桜の母は古事記がその名を伝えるアタツ姫、緑子とはアメワカヒコとの間に生まれたホノススミのことです。このホノススミの誕生説話にカツテが登場するのは、ホノススミの誕生が原則より半年遅く、カツテと同じ年に生まれたからだと考えられます。

「またヤスヒコは やすやすと 取り上ぐことを 業となせ 賜ふ璽は カツテ守」(14)

あたかもカツテを産科医に任じたかのような記述ですが、本当はカツテ自身については原則通りの元服、子の誕生であったことを知らせているのです。そして、これらの記述が伝えることは、タマネ姫の元服の年代は原則通りであり、タマネ姫は元服と同時には結婚せず、元服の半年後にホノアカリと結婚したということだと思われます。

X 2024.04.27

#439 一枝山(比叡山)

かつて広大な潟湖(淡海)だった福岡平野。その東岸の箱崎にあるフツヌシの新治宮(福岡市東区・宝満尾遺跡)に対して、西岸の箱根にあったのがオオヤマクイ(=オオトシ)の瑞穂宮(福岡市西区・吉武高木遺跡)です。

「原大君 伊豆崎宮に 箱根守 三歳祀りて 沖壺の 峰より眺め 詔 汝ヤマクイ 山後 野を掘り土を ここに上げ 大日の山を 写すべし 一枝に足り 一枝山〔比叡山〕」(24)

沖壺は志賀島(博多湾)ですから、そこから「眺められる」とすることで瑞穂宮の場所を知らせようとしています。さらに、古事記は「近淡海国の日枝山」として、その場所が「近江の多賀(糸島市三雲)」の近くであることも知らせようとしています。「山後」とは、多賀から見ると瑞穂宮が山の後ろにあるためでしょう。その山を越える舟運路が「箱根の洞」で、現在の日向(ひなた)峠越えのルートです。その西区側の入口には現在「羽根戸(はねど)」という地名がありますが、もともとは「箱根戸(はこねど)」だったと考えられます。
現在の福岡平野にあった潟湖の西岸の「一枝山(ヒヱのやま、現在の飯盛山に比定)」は、後世に琵琶湖の西岸に写されました。
その命名の由来である「一枝に足り」の「一枝」とは60穂(=30年)のことです。新治宮の「手斧初め」として記されるオオトシとカムオオイチ姫の結婚(キアヱ=前232年)から、オオトシの系譜をホノアカリの系譜に統合したタマネ姫の元服・婚姻の最速の推定年(前203年)までが59穂であることから、「一枝=60穂」はオオトシが大王に即位してから、その系譜が統合されて廃絶するまでの期間を指していると考えていいでしょう。

2024.04.25

#438 嶽と鏡

前回考察で、21文の新治宮建造の「手斧初め」と記されるキヤヱをキアヱ(31鈴1穂、前232年)の偽装とみなすと、オオトシとカムオオイチ姫の結婚の推定年と合致することを指摘しました。なぜその結婚が手斧初めとされるのか。それは、オオトシが新治宮(福岡市東区・宝満尾遺跡)が守る針摺運河の最初の開削者だからです。

「サルタして 嶽の磐座 押し放ち伊豆の路分きの 鎧崎 嶽や鏡の 水尾の土 積む三上山 井堰築く サルタを褒めて 水尾の神 好むウズメを 賜りて その名顕す 猿部らと 神楽男の 君の基なり 詔 水尾の路分きも 田(治)はここに これ鏡なり 仮宮を 瑞穂と名づく 多賀に行き 幣を捧げて」(24)

この一節の「サルタ」は前219年のアマノコヤネ(徐福)渡来を支えた海洋王サルタヒコではなく、それより前に西山陰の永田(山口県下関市永田郷)に渡来していたオオトシのことです。
タケ」は「交通の難所」の隠語であり、「鏡」は「カ噛み」で、対立国との国境のことを指す隠語だと考えられます。
「路分き」とは地峡のこと、「伊豆」はタカヒコネのことですから、「伊豆の路分き」はタカヒコネが守っていた諫早地峡のことです。「鎧崎ヨロイザキ」の「ヨロ」は「万木ヨロギ」のヨロで、万木とは木がたくさん生えているという意味で、おそらく四国や東九州のようには火山の噴火被害に遭うことがなかった地域を指すものと思われます。これまでは中国山地に比定してきましたが、当時北部九州地方と西山陰地方を分けて考える発想はなく、響灘沿岸から博多湾までの地域がそう呼ばれていた可能性があります。ヨロイザキの「イ」は「井」で運河のことでしょう。有明海から見て「万(玄界灘側)に向かう井(運河)の先(崎)」にあるのは、後にタカヒコネが移った新治宮です。「伊豆の」は「路分き」に掛かるのではなく「万井崎」に掛かっていると考えるべきでしょう。
「鏡」を「カ噛み」と考えるのは、「相模=サ噛み」の例があるからです。現代日本語には「こ/そ/あ/か」という指示体系がありますが、ホツマツタヱの時代からこの指示体系は確立していました。そして、「そのように」を「さように」、「そのような」を「さる」というように、「さ」は「そ」の交替形だったと考えられるのです。「さすが(流石)」という言葉も、「あすか(飛鳥・明日香)」「かすか→かすが(春日)」とつながる言葉ではないかと思います。
「瑞穂」の次に「多賀」の一節が続くのは、瑞穂宮(福岡市西区・吉武高木遺跡)が多賀宮(糸島市・三雲南小路遺跡)に続く河川舟運路の入口にあることを伝えるためです。
なお、「嶽や鏡の」という一節は、福岡平野・早良平野の新治宮と瑞穂宮のことではなく、「タケ(北九州市豊前域)」と「日高見(京都平野)」を結ぶ地域のことでしょう。「嶽」は宮津(北九州市小倉北区・御祖神社)、「鏡」は前漢鏡が出土した宮原遺跡(香春町鏡山)に比定できます。「香春」は現在「かわら」と読まれますが、倭名類聚抄の写本には「かはる」と訓じるものもあります。「かはる」は「カハリ」の転訛で、初代「カ噛み」の地の「カハリ」に対して、嶽の地に新しく造られた宮に「ニイハリ」と名づけられたのではないかと考えます。

X 2024.4.22 22:00

#437 新治④

タカヒコネが新治宮(福岡県東区)に移ったのは、アマノコヤネ再渡来から7穂を経た39鈴53穂で、アマノコヤネが磯輪上秀真=春日国(筑紫野市)に移る半年前だったようです。そして、この39鈴53穂は、21文冒頭の「26鈴17枝23穂」が「10鈴30穂前倒し」という規則正しい攪乱によって指し示す年代と一致するのです。

「二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生初日 キヨヒト〔ニニキネ〕御子の 詔 大物主が 親の国 出雲八重垣 法治む その元則は 先神の 功なれば 我も殊 立てんと四方を 巡るうち 良き野を得たり ここに居て 田を開かんと まず建つる 名も新治宮」(21文)

この一節はニニキネの事績として記されますが、やはりタカヒコネの事績なのです。そして、その続きも暗号になっています。

「太占に 宮造り法 定めよと 大物主に 詔 物主受けて 法定む まずそまをして 木を切るは キヤヱの日良し 手斧初め ネシヱ礎 柱立て 中墨柱 南向き 北東西 巡り立つ 締ま羅生門からふかど 中墨に よりて定むる 棟上げは ツアヱに祝ひ」(21文)

まず、「礎柱立て」のネシヱは34鈴19穂で、26文の一節が伝える「春日国遷都の36穂前に新治宮造営」という年と一致します。そして「棟上げ」のツアヱは、これを「ツヤヱ」の偽装だとみなせば39鈴53穂であり、冒頭の一節が伝える「新治宮造営(=タカヒコネ新治遷都)」の年と一致するのです。
そうなると、「手斧初め」のキヤヱは「キアヱ」の偽装であると考えることができます。その指し示す年は31鈴1穂(前232年)。これはオオトシとカムオオイチ姫の結婚の推定年です。
一連の考察からわかった新治宮に関する年表は以下の通り。

手斧初め:キアヱ:31鈴1穂(前232年):オオトシとカムオオイチ姫の結婚
礎柱立て:ネシヱ:34鈴19穂(前223年):フツヌシ新治宮造営
(ネミヱ:37鈴39穂(前213年):ホノススミ新治宮遷都)
棟上げ:ツアヱ:39鈴53穂(前206年):タカヒコネ新治宮遷都

オオトシとカムオオイチ姫の結婚が「新治宮建造のための木の切り始め」とはどういうことか。
そのことについてはまた次回。

X 2024.4.21 8:00

#436 新治③

新治宮の位置を考えるために参考とすべき記事はいくつかあります。

志賀守シカのかみは まだてず 筑紫の宮に 移ります を考えて 油粕 入れて糟屋の はにつる」(25)

「志賀」は現在博多湾に浮かぶ志賀島にその地名が残っていますが、倭名類聚抄にも「糟屋郡志珂郷」があるので、陸地側を指す地名だったと考えられます。「埴=羽がつる」とは男子が生まれて男系断絶を逃れること、油粕はすでに指摘したようにアメミチ姫ですから、糟屋にいたのはタカヒコネ。逆に「まだ充てず」とされているのはホノススミです。この一節にも攪乱があり、新治にいたホノススミは卯川に移り、そこへタカヒコネが移ってきたです。ということは、糟屋も志賀も筑紫の宮もすべて新治を指しているということになります。

「相模を守れば 罪消えて また人成ると 尾を切れば 万のヲタウの 山ぞ箱崎」(28)
「二荒の 伊豆の守とて 六万年 経てまた元の 新治宮 伊豆大神の 殊大いかな」(21)

28文の一節は後世に九頭龍として伝わった「九頭大蛇こかしらのおろち」説話の一部ですが、21文の一節と同様タカヒコネ(伊豆の守)の事績です。相模は唐津湾と有明海を結ぶ舟運路の入口、相模の小野のことで、佐賀県武雄市橘町に比定できます。アマノコヤネ渡来時に諫早地峡(二荒フタアレ)に配流されていたタカヒコネは、アマノコヤネ再渡来後に相模小野に移り、そこに六万年(7穂)いた後、雲仙岳の噴火で新治宮に移ったのです。その場所はこの一節では「箱崎」と記されています。現在は福岡市東区の地名となっている箱崎も戦前までは糟屋郡に含まれていました。

新治宮は、筑紫の糟屋の志賀の箱崎にあったのです。現在の箱崎は標高が低く、近年になってから陸地化したものでしょう。古代の箱崎は「宝満尾」と呼ばれる宝満山(御笠山)の尾根のことを指していたと考えられます。
そもそも「箱崎」の「箱」とは福岡平野のことです(日本書紀の熊鰐説話にも「御筥」として登場します)。福岡平野の形を箱に喩えて、その西縁を「箱根」、東縁を「箱崎」と呼んでいたと考えられるのです。宝満尾はまさに福岡平野の東側の縁にあたります。そして何よりも、その名もずばり宝満尾遺跡からは、九州王権が後に王の居場所に意図的に埋めたと考えられる前漢鏡が出土しているのです。
瑞穂宮がある箱根(やはり前漢鏡が出土した吉武高木遺跡)と新治宮がある箱崎は、針摺地峡に続く入江を挟んで向き合う場所にあり、ホツマツタヱはそれを「水際分かる」と表現したのでしょう。
なお、箱崎地名は福岡に残りましたが、箱根地名は東国の伊豆に写されて、福岡からは痕跡が消えてしまいました。

「伊豆ヲバシリの 洞穴に 自ら入りて 箱根神」(24)

すでに引用したこの一節には、「伊豆(雲仙岳)」の北麓の諫早地峡にいたタカヒコネが箱崎(福岡市東区)に移って守っていた針摺運河を通って、ニニキネが「箱根(福岡市西区)」に移ったということが記されているのですが、これだけを読むとたしかに伊豆に箱根があるように読めます。
また、新治は筑波、伊佐、那珂、多賀とともに茨城にその地名が写されましたが、箱崎、箱根、瑞穂は茨城には写されなかったようです(現在の稲敷郡河内町に旧瑞穂村がありますが、太平洋戦争中に合併で生まれた新しい地名とのことです)。
奈良政権の地名偽装プロジェクトを主導した人々が、この一節を誤読していたとは思えません。一般の人々の誤読に合わせて、地名偽装をコントロールしていたのではないか。そんなふうに考えます。

X 2024.4.20 21:00

#435 新治②

前回の考察で、新治宮に関する二つの年代を特定しました。
・34鈴19穂(前223年):新治宮造営
・37鈴39穂(前213年):ホノススミ新治宮遷都
引き続き、新治宮に関する数字を含む記事を見て行きましょう。

「弟キヨヒト〔ニニキネ〕は 新治宮 新治開きて 民治む 十八万年に 殊を得て 水際分かる 新治振り」(28)

この一節も前回取り上げた24文と同様、ニニキネの事績として記されていますが、これはタカヒコネの事績です。「弟キヨヒト」とするのは、ホノススミの父アメワカヒコの弟タカヒコネの事績であることを伝えるためです。「殊を得て」は「琴を得て」と掛けた表現と思われますから、4人の女王候補が生まれることになったタカヒコネとアメミチ姫(ヨト姫)の再婚のことを指しているものと考えられます。この再婚については、神武天皇の橿原遷都として記されるミススヨリ姫の元服の「サナト(60鈴58穂)」の百万年(121穂=61年)前、つまり、同じサナトの「40鈴58穂」であることがわかっています。その「十八万年=21穂」前とは「サミト(35鈴28穂)」であり、「アマノコヤネとヒメの結婚」として記されるアマノコヤネ(徐福)渡来の年、前219年です。だとすると、「新治開きて」とは新治宮造営ではなく、針摺運河が開かれたという意味でしょう。そして新治宮とは針摺運河を守るための宮ということになります。
一番のポイントは「水際分かる」ですが、実は、この表現は24文にも出てきます。

「新治の民が 子と慕ふ 風も分かれて 元民と 水際分かれ 磯輪上の 御柱のまま 成る如く 政ホツマに 調ひて」(24)

「風」とは再婚の隠語、「子と慕う」は「子の如く」などと同様、娘婿や長男以外の子を嫡男扱いすることでしょう(「琴慕う」とも掛けている可能性があります)。再婚によって娘婿を得たのは、娘をタカヒコネと再婚させたフツヌシですから、この一節の「新治の民」は宗像のフツヌシということになります。それでは、「風(タカヒコネ)」と水際で分かれた「元民」とは誰でしょうか。

男子がなかったタカヒコネはアメミチ姫との再婚の前に、前妻との娘アシツ姫を天孫傍系のニニキネに嫁がせて、一度は系譜統合を完了していました。ニニキネの別名「ワケイカツチの天君」の「ワケツチ(分け土)」とは地峡や谷中分水界のことで、ニニキネがタカヒコネのいた諫早地峡を継承していたことを示していると考えます。しかし、天孫嫡系ホノアカリが失脚して宇土に配流されて事情が変わり、ニニキネは「民」から「君」に昇格して、天津日嗣(在来王日高見を継承する渡来王)となりました。そこに雲仙岳の噴火が起こり、有明海沿岸を放棄して避難する必要が生じたのです。
次の一節はニニキネの父オシホミミの事績を記す一節ですが、君とはニニキネのことです。

「君はその 民は君なり 治(た)は箱根 … 日嗣の君と 守る箱根ぞ ついに掘る 伊豆ヲバシリの 洞穴に 自ら入りて 箱根神」(24)

「伊豆ヲバシリ」の「ヲバシリ」は針摺地峡、「伊豆」は雲仙岳のことですがここではタカヒコネのことを指していると考えられます。ニニキネは新治のタカヒコネが守る針摺運河を通って、箱根に向かったのです。その場所は福岡平野(箱)の西縁(根)の瑞穂宮(福岡市西区・吉武高木遺跡)に比定できます。そして、その場所はタカヒコネがいた新治と「水際分かれ」という位置関係にあったのです。(つづく)

X 2024.4.19 11:00

#434 新治①

新治(ニハリ/ニイハリ)という地名は、現在、筑波(福岡県福津市→つくば市)、伊佐(福津市→筑西市)、那珂(那珂川市→ひたちなか市)、多賀(糸島市→日立市多賀)といった玄界灘に並ぶ地名とともに茨城県(筑西市新治)に写されています。
これまで新治については、ホノススミやタカヒコネの居場所だったことはわかっていましたが、いつ誰の宮としてどこに造営されたのかということはわかっていませんでした。
新治宮の造営については、直接的に記した記事があります。

「二十六鈴 十七枝二十三穂 弥生初日 キヨヒト〔ニニキネ〕御子の 詔 大物主が 親の国 出雲八重垣 法治む その元則は 先神の 功なれば 我も事 立てんと四方を 巡るうち 良き野を得たり ここに居て 田を開かんと まず建つる 名も新治宮」(21文)

この記事には新治宮の造営が「26鈴17枝23穂」であることが示されていますが、通常の「鈴枝穂」の換算法では「24鈴23穂(前251年)」、攪乱の常套手段である10鈴(30年)前倒しとみれば、「34鈴23穂(前221年)」になります。しかし、その二つの年には新治宮造営に関わりそうな出来事が見当たらないのです。
新治宮については、ほかにも数字を含む記事がたくさんあります。まずは次の二つの記事から見て行きましょう。

「昔新治の 宮建てて 田水のために 原見山 成りて三十万 民を治す ついに磯輪上シハカミ 秀真ホツマ成る」(26文)

「三十万」は神代年(1年=8250穂)で、36穂(18年)です。「磯輪上秀真」とは島原半島の原(長崎県南島原市・原城跡)にいたアマノコヤネが雲仙岳の噴火被害から逃れて移った春日国(福岡県筑紫野市二日市)のこと。この磯輪上秀真については、「三十鈴の 暦なす頃 国の名も 磯輪上秀真 遍くに 移り楽しむ 代々豊か(24文)」とあり、その造営は40鈴に入る前年の39鈴54穂(前206年)に比定できます(10鈴前倒しの攪乱があります)。この記事には、春日宮造営の39鈴54穂が、新治宮造営の36穂目にあたると記されているわけです。この記事の通りであれば、新治宮は34鈴19穂(前223年)に造営されたことになり、それはイフキトヌシがタナコと結婚して大王に即位し、オオトシの娘ウズメを女王候補に擁立してオシホミミを連合相手としたと推定される年代と合致します。

「新治の宮の 十八万年に 新民増えて」(序)

「十八万年」は21穂(11年)です。新治宮に「新民増える」、つまり、新たな住人がやってきたのは、新治宮造営の21穂目だと記されているわけです。34鈴19穂から21穂目というと、37鈴39穂(前213年)。それはホノアカリ元服・スガタ姫女王即位の年にあたります。この時、新治宮の新たな住人となったのはスガタ姫の弟でホノアカリの連合相手となったホノススミでしょう。

しかし、26文が示す造営年「34鈴19穂」も、序が示すホノススミが新治に移った年「37鈴39穂」も、21文が示す造営年「26鈴17枝23穂」との間には共通点が見いだせません。21文が示している年代は、新治宮に関する何を示しているのでしょうか。(つづく)

X 2024.4.18 10:00

#433 十二后の「内」と擁立された14人の男王

あらためて十二后について再掲します。

①〔北の典侍〕クラキネのマス姫モチコ:アマテル ※肥根国(=肥北国)
❷〔北の内后〕妹姫のコマス姫ハヤコ:ソサノヲ ※肥根国(=肥北国)
③〔東の典侍〕ヤソキネのオオミヤ姫ミチコ(=ウズメ):サルタヒコ ※杵島(=東洲)
❹〔東の内侍〕タナハタ姫コタヱ(=タカ姫):アメワカヒコ/アマノコヤネ ※杵島(=東洲)
❺〔南の典侍→内宮〕サクラウチのセオリツ姫ホノコ:アマテル ※南東(サクナタリ)
❻〔南の内侍〕ワカ姫ハナコ(=アシツ姫):ニニキネ ※南西(二荒)
⑦〔西の典侍〕カナサキのハヤアキツ姫アキコ:タカキネ ※津(宮津)
❽〔西の内侍〕宗像のオリハタ姫オサコ(=タケコ):オオナムチ ※鹿島(=西洲)
⑨〔西の乙下〕トヨ姫アヤコ(=ウケステメ):アマツヒコネ ※津(宮津)
❿〔南の乙下〕糟屋のイロノヱ姫アサコ(=アサ姫):トカクシ ※刺国/南(吉備高島)
⓫〔北の乙下〕カダのアチコ(=オクラ姫):タカヒコネ ※根国(=北国)
⓬〔東の乙下〕筑波ハヤマのソガ姫(=スガタ姫):ホノアカリ/ミホヒコ ※東(四国・須川)
⓭〔南の典侍〕カナヤマヒコのウリフ姫ナカコ=タキコ:カグヤマツミ ※佐田(サ方、相模江の島)

これを見ると「内侍、内后、内宮」とされているのは、すべてサシミメの子孫であることがわかります。また、内宮に入ったセオリツ姫の代わりに南の典侍となったとされるタキコ、そして4人の乙下のうち渡来女王であるウケステメ以外の3人もサシミメの子孫です。(上のリストでは、サシミメの子孫を黒丸数字にしてあります)
サシミメとサクナギの間に生まれた男子は「サクラウチ(桜内)」であり、サクナギの一族が阿蘇山の噴火被害により四国から山陰に移り、二王位独占を企てて四国に追放され、九重山の噴火被害によって九州に戻った時の宮の名は「大内宮」でした。そしてこの十二后でも、「内」はサシミメの子孫の隠語になっているのです。「内」は四国を表す「遠国/外国(トクニ)」の「外(と)」の対義語で、「九州内に進出した四国勢力」といった意味があるものと考えられます。

十二后を系図にして示します。
十二后を赤紫、それ以外の女子を薄い赤、十二后によって大王に擁立された男子を黒、それ以外の男子をグレーで示しています。

13人の女王が擁立した大王は14人。

アワナギ嫡系:①⑤アマテル~…~⑥ニニキネ/⑫ホノアカリ
アワナギ傍系:②ソサノヲ~④アメワカヒコ/⑪タカヒコネ
サクナギ:(オモイカネ~…~/サルタヒコ~…~)⑩トカクシ
トヨウケ〔日高見〕:⑦タカキネ(~アマツヒコネ)
ウケモチ〔大物主〕:⑧オオナムチ~…~⑫ミホヒコ
カナサキ〔住吉〕:(タカキネ~)⑨アマツヒコネ
アカツチ〔宗像〕:⑬カグヤマツミ
渡来王盟主〔春日〕:④アマノコヤネ
渡来海洋王:③サルタヒコ(~…~トカクシ)

そのリストは、アマノコヤネ(徐福)渡来時の九州の9つの王族を網羅するとともに、リストに含まれたアワナギ傍系のソサノヲと、リストに含まれなかったサクナギ傍系のイフキトヌシの違いを強調するものとなっています。
さらに、⑥ニニキネと⑫ホノアカリをリストに含めることで①⑤のアマテルから傍系が派生したことを、④アメワカヒコと⑪タカヒコネを含めることで②ソサノヲからも傍系が派生したことを、③サルタヒコの孫⑩トカクシを含めることで海洋王の排除とサクナギ嫡系の継承を、⑦タカキネの子⑨アマツヒコネを含めることで日高見の男系断絶と住吉の継承を、⑫ミホヒコを含めることでウケモチの没落を、⑬カグヤマツミを十三人目とすることによってその男系断絶と河川舟運王の排除を、それぞれ示しているとみなすことができます。
さらにいうなら、淘汰された4王族に代わって新たに派生した傍系4王族が加わった9王族のうち、盟主春日を除く8王族が「八峰/八島」に対応しているというわけです。

このようにホツマツタヱの「アマテルの十二后」は、いわゆる「MECE(相互排他的かつ網羅的)」を実現した、完璧に計算しつくされた暗号なのです。

X 2024.4.17 13:00

#432 「十二后」再考⑥

アマテルの「十二后そふきさき」には、典侍すけのセオリツ姫が「内宮」に入ったので、13人目が補充されたという話が記されます。

⑬〔南の典侍〕カナヤマヒコのウリフ姫ナカコ=タキコ:カグヤマツミ ※佐田(サ方、相模江の島)

正統な大王である夫をもつ8人の典侍すけ内侍うちめと、大王位の正統性を認められていない夫をもつ4人の乙下に付け加えられた13人目は、河川舟運王・宗像のカグヤマツミの后となったタキコです。タキコはソサノヲとハヤコの間に生まれた三つ子の女子(宗像三女神)の中子で、オオナムチの后となった⑧のタケコの妹です。カナヤマヒコとはハヤコの祖父アカツチの別名で、カグヤマツミの父親でもあります。つまり、カグヤマツミとタキコは大叔父と大姪の関係にあたります。ウリフ姫ナカコのウリフとはうるりのことで双子という意味ですから、「双子の中子」というのは矛盾しています。これはひとつには、元服と同時に女王に即位したのは上の二人だけで、三つ子の末子タナコは元服時には即位しなかったということを示しているとみます。ちなみにタナコがイフキトヌシと結婚して女王に即位したのは17年後、タナコが31歳の時だったと考えられます。さらに、タキコが十二后の13番目の扱いを受けるのは、夫カグヤマツミの宗像の系譜が、アマノコヤネ(徐福)渡来時の勢力再編で、四国王傍系のイフキトヌシとともに連合同盟から排除されたからでしょう。タキコを双子として13番目とすることで、タナコの夫イフキトヌシの大王位が否定されたことを示唆していると考えます。
なお、このタキコが「の典侍」とされるのは、三つ子が佐田(サ方)、相模(サ噛む)と呼ばれた有明海沿岸に配流されていたからです。タキコの居場所は相模江の島(「タキコ姫 カグヤマツミの 妻となり カゴヤマ生みて 相模なる 江の島神と なりにける(28文)」)で、その比定地は現在は丘陵地となっている佐賀県小城市池上の牛尾山です。

X 2024.4.26 8:00

#431 「十二后」再考⑤

アマテルの「十二后」の「乙下女おしもめ」の最後です。

⑫〔東の乙下〕筑波ハヤマのソガ姫(=スガタ姫):ホノアカリ/ミホヒコ ※(四国の須川)

⑫のソガ姫はその名からもスガタ姫であることが推測できますが、その出自である「筑波(筑紫の端)」とはイサナギの伊佐宮(福岡県福津市)のことです。ニニキネの事績に偽装されてはいますが、スガタ姫の弟ホノススミは新治ニハリに移る前に筑波にいたことが明記されています。スガタ姫はソサノヲの長男アメワカヒコとその配流地に隣接する現地の女子アタツ姫の娘です。ソサノヲは高知県四万十市西土佐橘、妻ハヤコ(イナタ姫)は愛媛県北宇和郡鬼北町奈良(ナラはイナタの転訛と考えます)に配流されており、長男アメワカヒコはイナタから国境を越えた場所にある須川(現・愛媛県宇和島市・須賀川)のアタツ姫と結婚したと考えられます。その娘である須川のスガタ姫がソガ姫とされるのは、スガワとサに挟まれている(二つの国境(ナ)に挟まれているため「二名」ともされる)アガタ(ア方=県)が、「スアサ」ではなく「ソアサ」と呼ばれるのと同じ交替現象、あるいはそれを利用した攪乱でしょう。
スガタ姫はホノアカリの后になったものの離縁され、イワナガ姫の名でニニキネとの婚姻を画策して失敗し、イクタマヨリ姫の名でミホヒコと再婚しました。ホノアカリはニニキネの兄でしたが、嫡男の立場をニニキネに奪われて傍系の立場に甘んじました。またアマノコヤネの連合相手だったミホヒコも男子をもうけるためにスガタ姫を娶り、男子カンタチが生まれたものの没落しました。そういうわけでスガタ姫は「四国=の乙下」なのです。(つづく)

X 2024.4.15 8:00