火山・皆既日食

歴史書に火山の噴火や地震、皆既日食といった自然現象が記されることはよくある。
記紀に記された「イサナミの死」や「ソサノヲの悪行」を火山に関する記述とする説や、「天岩戸神話」を皆既日食と結びつける説はごく一般的なものである。

ホツマツタヱと火山

九州には活火山が多く、ホツマツタヱにも火山の描写が多くみられる。

火山の噴火被害が王族の移住につながって歴史を左右しただけでなく、火山被害が予想される地や復興地が配流地として選ばれることも多かったからである。

黄泉国神話において「イサナミの死後イサナギが再びイサナミに会いに行く」のは、大きな被害が出て王族の移住につながった一つ目の火山の噴火活動が鎮静化した後に、二つ目の火山に大噴火の予兆があったという事実を伝えるためである。悪行を働いて配流されたソサノヲが建てた国が「出雲国」と呼ばれるのは、その配流先が二つ目の火山の噴煙が見える場所だったからである。

イサナミとソサノヲは母子であり、実在した人物であるが、イサナミは火山活動の鎮静化や、噴火の予兆をみせる火山に対する祭祀の、ソサノヲは火山の噴火被害を表す隠語にもなっている。

二つの火山の場所に関する暗号は古事記に暗号が組み込まれている。その暗号を解読すれば、一つ目の火山は阿蘇山であり、二つ目の火山は九重山であることがわかる。≫古事記暗号「黄泉国神話」

ホツマツタヱにはそれ以外にも、雲仙岳由布岳鶴見岳霧島山の噴火あるいは噴煙を示す記事がある。以下に詳述する。

阿蘇山:有馬

ホツマツタヱの「イサナミは有馬に納む」という一節は、イサナギ・イサナミの在位期間中に阿蘇山の噴火活動が鎮静化したことを示している。筆者の年代比定によれば、イサナギ・イサナミの在位期間は前280年から前264年までである。

はたして、阿蘇山は紀元前3世紀に山体崩壊を伴う大噴火を起こしていることがわかっている(産総研「日本の火山>1万年噴火イベントデータ集>阿蘇山」)。

合志(熊本県合志地方)に上陸して阿波(菊鹿盆地)を本拠としていたウヒチニ(前322年即位)の一族は阿蘇山の噴火によって移住を余儀なくされた。ミカサフミには「アワ(淡)がウヒ(泥)に変わった」とする暗号がある。≫ミカサフミ「アワとウヒ」

ウヒチニの子アワナギは連合国である山陰の助けを得て、西山陰の根国ネノクニに移住する。古事記は「ソサノヲ(火山)からの難題で火に囲まれた大国主が鼠((根)住みで根国のこと)の助けを借りて地面の底(細矛ホソホコ(山陰)の短縮形→サホコ→ソコ)で火をやり過ごした」という暗号を加えている(古事記の「大国主」には多くの人物が融合されている)。

同じ時、九州東岸を本拠としていたサクナギの一族も火山被害に見舞われた。ホツマツタヱにはそのことを知らせるための「ワカサクラ姫ハナコの家に馬が投げ込まれ、姫が杼に破れた」という説話があるが、古事記はその説話を「ホトを杼(火)が突いた」と改変して、その場所が佐加(佐久)と穂門ほと(和名類聚抄、佐賀関半島周辺)の周辺であることを伝える暗号を付け加えている。

なお、阿蘇山の東麓の熊本県産山うぶやま村には「有馬」地名がある。古事記はこれに対しても「国境付近の比婆ひばの山」という暗号を付け加えている。≫古事記暗号「比婆の山」

九重山:伊吹

九重山は阿蘇山より少し遅れて紀元前2世紀に大規模な噴火を起こしている(産総研「日本の火山>1万年噴火イベントデータ集>九重山」)。

ソサノヲが出雲国を建国したのは前248年である。その時には噴煙は上がっていたものの、まだ大規模噴火は起こしていなかった。黄泉国神話におけるイサナギのイサナミ訪問は、火山を鎮めるための祭祀を示している。実際、古事記が「伊賦夜いふや坂」の暗号で伝える「由布谷(大分県由布市挟間町谷)」には白岳神社があり、祭神はイサナミである。

九重山は「伊吹」と呼ばれた。九重山の北麓の玖珠盆地(山田)に配流されたイフキトヌシの名は、「伊吹の戸(入口)に住む者」という意味である。

雲仙岳:伊豆浅間峰

雲仙岳は噴火活動が繰り返されており、火山研究においても古代の噴火イベントは網羅できていない(産総研「日本の火山>1万年噴火イベントデータ集>雲仙岳」)。

雲仙岳は前210年のアマノコヤネ再渡来の数年後に大噴火があり、火砕流流出による津波によって北部の佐賀平野を除く有明海沿岸の潟湖の汽水化が一気に進んだようである。ホツマツタヱは火砕流を「九頭こかしら大蛇おろち」と描写し、「潮浴びて映す鏡」という一節で、有明海沿岸の潟湖の汽水化による塩害被害で、アマノコヤネ(鏡)が居場所を移したことを伝えている。

島原半島(伊豆)を本拠地としていたアマノコヤネは、いったん佐賀平野北部の嘉瀬川流域の小塩オシホ(佐賀市大和・七ヶ瀬遺跡。小塩とは塩害被害が少ないことを指す地名)に移った後、筑紫平野の北部の飛火野丘(福岡県筑紫野市・二日市峰畑遺跡)、さらには枚岡(福岡県春日市・須玖岡本遺跡)に移った。この地のことを島原半島から見て東北にある内陸部であることから、「シワカミホツマ(地上の東北)」と呼んだ。移住の時期は「三十鈴の暦なす頃」とされるので、十鈴前倒し偽装とみなして、前205年頃に比定することができる。

なお、雲仙岳の名は「伊豆浅間峰」である。ホツマツタヱには、伊豆(島原半島)に朝起きたら出来上がっていた峰ということから命名されたと記されている。

由布岳(豊後富士);富士山

由布岳は紀元頃と1世紀中に噴火を起こしている(産総研「日本の火山>1万年噴火イベントデータ集>由布岳」)。

ホツマツタヱは、西暦60年に比定される「原見山への御幸」の記事に、「田子の浦人(別府湾岸にいたサルタヒコの子孫)が天皇家に藤の花(女王候補ミツハイラツメ)を捧げた」という富士山命名譚を記す。その命名譚が語られた場所は諏訪酒折(宇佐市安心院)から下り、裾(国東半島)を巡った梅大宮(国東市・安国寺遺跡)である。

はるかに下った242年の記事には、相模小野サガムノオノ(相模は佐賀関半島のことで、小野は大分市・守岡遺跡に比定)に城を構えて堅く守った時に「東風(こち)吹き変わり 西煙 仇に覆せば」とあり、相模小野の西側に火山があることがわかる。

これらのすべてが富士山と命名された山が別府湾近くにある由布岳であることを示唆している。

なお、富士山命名譚中の「田子の浦」が別府湾であることは、万葉集と新古今和歌集の「田子の浦…」の歌が伝えている。≫暗号文「田子の浦…」

鶴見岳:足柄山

由布岳の4kmほど東側(海寄り)にある鶴見岳が噴火したのは、由布岳噴火の直後であったようである(産総研「日本の火山>1万年噴火イベントデータ集>鶴見岳」)。

ホツマツタヱには、相模小野が由布岳の噴煙に覆われたすぐ後に「足柄山に 攻め到る 相模小野の 城攻めを 堅く守れば」という記述がある。この足柄山が鶴見岳であると考える。

霧島山・高千穂峰:曾於高千穂

ホツマツタヱの時代に大規模噴火があったデータはないが、雲仙岳同様、小規模な噴火については網羅されていないとされる(産総研「日本の火山>1万年噴火イベントデータ集>霧島山」)。いずれにしろホツマツタヱの時代に噴煙が上がっていた可能性は高い。

ホツマツタヱには、245年に景行天皇が子湯(コユ)(ガタ)()()()に御幸し東を望んで歌った歌に「雲出立ち」「(けむ)()せば」とある(15年前倒しの偽装あり)。()()()は霧島山の東麓(宮崎県高原町、神武天皇生誕地伝承あり)に比定される。その歌の直前でニニキネについて語るのは、ニニキネの鹿児島(対馬)への配流と、天皇家の配流を重ねるためであり、鹿児島にあるかのように記される「曾於高千穂」が本当はその歌が歌われた場所にある火山の名であることを伝える暗号になっている。

ちなみに、竹取物語の富士山命名譚における「駿河の一番高い山」とは高千穂峰のことで、「藤の花」が捧げられた時、天皇家が高千穂峰の麓にいたことを示す暗号になっている。駿河は志布志湾岸であり、鹿児島県曾於郡大崎町永吉に駿河地名が残っている。

ホツマツタヱと皆既日食

天岩戸神話の皆既日食

天岩戸神話の「アマテルが岩室にこもったことで天下が暗闇に包まれた」という出来事は皆既日食を記したものではないかと、これまでも推測されてきた。

「アマテルが岩室にこもる」とは「アマテルの退位」であり、それは「オシホミミの即位」と同義である。オシホミミ即位はアマテル100穂(50歳半)の時であり、筆者の年代比定では前228年の後半である。

はたしてその半年後の前227年3月3日に九州中部から四国、本州南部にかけて皆既帯が通る皆既日食があったことがわかっている(NASA「日食月食サイト:5千年日食カタログ:-226年3月3日皆既帯図」)。

天岩戸神話は、タカキネ主導によるオシホミミ即位と父アマテル退位の直後に皆既日食があったことが政変につながったことを知らせる神話である。古代の人々にとって皆既日食は不吉なもので、直前の政治判断が誤りであったことの啓示と考えられていた(ハタタ神)。ただ、アマテルの退位自体が誤りだったとみなされたわけではない。

実は皆既日食の2年半前に上位連合大王のソサノヲ嫡系アメワカヒコが暗殺されていた。問題はその後の対応であった。アメワカヒコ暗殺を実行したのは海洋王タケミカツチだが、同盟諸国は海洋王の台頭を恐れ、タケミカツチを連合から排除する決定をした。そして、アメワカヒコの双子の弟タカヒコネを下位連合大王に即位させた。その判断が問題とされたのだ。

結局、タカヒコネは連合から排除され、タケミカツチは自分の娘を女王に擁立して四国王嫡系タチカラヲに連合を迫った。しかし、タチカラヲはその婚姻を拒否し、オオトシの娘ウズメを女王候補に擁立した。ホツマツタヱはこの経緯を「タチカラヲが岩戸(タケミカツチ)を投げ、ウズメが踊った」という暗号で伝えた。

ちなみに、天岩戸神話にはもうひとつの出来事も融合されている。それは、皆既日食から9年後のアマノコヤネの渡来である。≫暗号「天岩戸神話」

(付)三国遺事・延烏郎細烏女説話の皆既日食

朝鮮の歴史書『三国遺事』の延烏郎細烏女説話は、ヒボコ渡来に対応した記事であるが、そこにも皆既日食を示唆する記述がある。

筆者の年代比定によれば、ヒボコ渡来は158年にあたる。三国遺事は延烏郎細烏女の渡日を157年としているが、朝鮮半島北東部で皆既日食があったのは158年7月13日であり、三国遺事の年代が誤っている可能性が高い((NASA「日食月食サイト:5千年日食カタログ:158年7月13日皆既帯図」)。

この皆既日食に関しては以下の文献も参照。谷川清隆・相馬充「『天の磐戸』日食候補について」『国立天文台報』13、2010年、85-99頁