年代の比定

ホツマツタヱの年代記述はいわゆる「二倍年歴」によっている。複数の紀年法が併用されており、30年周期の循環紀年法である「キアヱ紀年法」と、アマテル崩御の翌年を開始年とする紀元「アスス(こよみ)」は、意図的な偽装を除けばきわめて正確である。そのため、年代が記される出来事間の相対年代は二倍年暦ということさえ理解すればほぼ問題なく特定できる。問題は絶対年代の比定、つまり西暦との対応関係の特定である(以下、便宜的に二倍年暦の単位を「穂」に統一して記す)。

最大の手がかりは魏志倭人伝の「247年(あるいはそれ以降)の卑弥呼崩御」と「宗女壹与が13歳で即位した」という記事である。当時の九州王権では男女とも28穂(14歳半)の元服に合わせて即位していたことを示唆する多数の事例があるが、トヨスキ姫の系統だけはそれより早く即位するのが通例であった(おそらく新羅の習慣に従って初潮があれば即位していたためであろう。同じく新羅物主の血を引く女王ミヤヅ姫とヤマトタケ(ヤマトダケとも。倭建命/日本武尊)の説話に月経のエピソードが記されるのは、そのことを知らせるためだと考える)。

ホツマツタヱは景行56(アスス843)穂に上梓されるが、その18年前の景行20穂に「108穂(54歳半)のヤマト姫が14穂(7歳半)のヰモノ姫(トヨスキ姫の七世孫)に御杖代の地位を譲った」との記事がある。この記事が卑弥呼崩御時の壹与の年齢を示しているとすれば、ホツマツタヱの年代記述は偽装されている。壹与の即位で男王同士の争いが治まったということは、その夫は13代成務天皇である。天皇の在位年数の記載についてホツマツタヱにきわめて忠実な日本書紀は、12代景行の在位年数を60年(2倍年暦のままであるから60穂=30年)としており、これが正しければ成務天皇即位(=ヰモノ姫即位)は景行60穂の翌年である。この時ヰモノ姫は13歳(25~26穂)であるから景行20穂の記事は、本当は30穂ほど後の景行49穂か50穂の出来事ということになる。30穂というのはキアヱ紀年法の60穂(30年)周期のちょうど半分であり、30穂前倒し説をとってヤマト姫崩御を景行50穂とし、それを魏志倭人伝の記述から推定される卑弥呼崩御の西暦247年に比定すると、中国・朝鮮の歴史書に記される四つの出来事の年代とホツマツタヱの記事の間に重大な対応関係が見出せる。

中国・朝鮮の歴史書に記される四つの出来事とは、①157年の新羅の延烏郎細烏女の渡日(三国遺事)、②57年の光武帝による漢委奴国王印綬(後漢書)、③同じ57年の四代新羅王脱解即位(三国史記)、そして④前219年の徐福渡航(史記)である。

①157年の新羅の延烏郎細烏女の渡日(三国遺事)

ホツマツタヱには崇神39穂(158年)に「新羅のヒボコが渡来した」との記事がある。三国遺事が伝える延烏郎細烏女の渡日とは1年のずれがあるが、三国遺事記事中で示唆される皆既日食は158年だったことがわかっており、三国遺事の年代記述が誤りである可能性が高い。なお、ヒボコの后はトオツアヒメクハシで、漢字で書けば「遠津天日女細」であり、「細烏女」との一致もみられる。

②57年の光武帝による漢委奴国王印綬(後漢書)
③57年の4代新羅王脱解即位(三国史記)

孝霊30穂(57年)は大物主の妻モモソ姫(孝霊3穂誕生)の元服の年にあたる。脱解は多婆那国の出身とされるが、当時物主は丹波(タニハ)(京都府宮津市)に移っており、孝霊の代の王はタケヒテルであった。タケヒテルは新羅に進出した後、29代女王モモソ姫の元服に合わせて九州に来て女王連合大王に即位し、同君連合の新羅に戻って光武帝から漢委奴国王を印綬されたと考える。自分の正体を知った妻が泣き叫んだことを恥じた大物主が立ち去る時の描写にある〈大空踏んで 御諸山(ミモロヤマ) 33〉も、「大空」は「海を渡ること」の、「御諸山」は「九州外の土地」の符牒である。なお、三国史記は脱解の母を「女国」の王女と伝えるが、タケヒテルの母は27代女王ヰサカ姫(6代孝安天皇の勾当として記載)であり、三国史記の言う「女国」とはつまり九州女王連合のことである。

④前219年の徐福渡航(史記)

徐福渡航の前219年はアスス制定前であり、キアヱ循環紀年法では相対年代の特定にとどまる(ほかに鈴紀年法があるが大幅な偽装が加えられている)。前219年はサミヱ~サミトにあたるが、ホツマツタヱには二十五鈴のサミトにアマノコヤネがヒメカミと結婚したことが記されている。このアマノコヤネが徐福であり、ヒメカミはその11年前に7代女王として夫アメワカヒコを暗殺で失った8代女王タカ姫である。史記には前210年に徐福の二度目の渡航があったと記されるが、前212年にあたるキヤヱにアマノコヤネが「(まつり)を休む」とする記述があり、これが中国への一時帰国とみなせる。アマノコヤネの渡来者としての事績はスクナヒコナの名で記される。アマノコヤネは「鏡臣」と記されるので、スクナヒコナが「鏡の船」で渡来したことは両者が同一人物であることを強く示唆している。記紀は渡来したスクナヒコナがまもなく「常世の国に渡ってしまった」と記すが、これはスクナヒコナがアマノコヤネであり、一時帰国したことを知らせる隠文である。さらに記紀は、渡来より10年以上前の出来事である天岩戸神話にその場にいるはずのないアマノコヤネを登場させる。その上で古事記は、アマテルの質問にウズメが「あなたより貴い神が現れたのでみな喜んでいるのです」と答える場面を挿入する。その続きではアマノコヤネがアマテルに鏡を差し出し、「あなたより貴い神」とは実は鏡に映ったアマテルのことだったというオチを用意するのだが、それは攪乱であり、アマテルよりも権威のある王が渡来したこと、その王はアマノコヤネであり九州の最上位にあったアマテルに鏡を献上したことを伝えようとしたものである。なお、アマノコヤネの航海を支えたのはウズメの夫となった海洋王サルタヒコであった。スクナヒコナに代わってその名を伝えたクヱヒコはサルタヒコである。古事記は「クエヒコは今は山田の曽冨騰(案山子)で足では歩かないが天下のことを知っている」という一節を挿入する。これはホツマツタヱにおけるサルタヒコの描写〈(つら)案山子(かかち) 24〉を踏まえたもので、「足では歩かない」が海洋王であることを示唆している。

以上が、景行50(アスス837)穂を西暦247年に比定する根拠である(この比定によれば、神武即位は前144年ということになる)。