地名の比定

ホツマツタヱに登場する地名は、連合相手や配流地を除けばすべて九州地方の地名である。

近江は博多湾

記紀にも記される「八島」は九州王権の版図を示す記事であり、特に重要である。その解読の最大のポイントは記紀には記されない「オモタル・カシコネ(イサナギ・イサナミの一代前の王)の版図」の「中柱」とされる「近江(淡海)」を博多湾に正しく比定すること、そして、八島がホツマツタヱの八方位表現と対応していることに気づくことである。≫女王連合同盟の版図

地名は写される

地名比定で留意すべき点は、地形に由来する地名は同じ地形があればどこにでも存在しうること、人の移動があれば地名も写されること、それだけでなく、地名はさまざまな目的のもとで意図的に写すこともできるということである。

ホツマツタヱに史実が記される572年の間に九州内でも人の移動によって地名が他の場所に写された(その多くは有明海沿岸から東九州地方に写されている)。ホツマツタヱは攪乱のために意図的にその事実を隠蔽している。≫地名比定地一覧(別の場所に地名が写されたことを「→」によって示している)

全国に写された九州地名

ホツマツタヱに登場する地名は現在全国各地にあるが、それはその地名が歴史偽造の一環として地形の類似性や相対的な位置関係を考慮した上で全国各地に写されたからである。裏を返せば、地形の類似性や相対的な位置関係をもとにその地名の九州における場所を特定することができる。「上総」は島原半島と日向灘沿岸にあったが、島原半島は房総半島と、日向灘沿岸は九十九里浜と地形的な類似性があり、島原半島の北側には「鹿島」地名が現在も残っている。≫地名比定地一覧

奈良盆地周辺と筑後平野周辺の地名が奇妙な一致を示すことはすでに指摘されてきた。これも裏を返せば、筑後平野周辺に地名が残っていない場合でも、奈良盆地における位置関係と弥生時代の遺跡を照合することで復元が可能になるということだ。その方法で復元できた地名比定地には、層富ソフ(須玖岡本遺跡)、飛火野丘トブヒノオカ(二日市遺跡)、磯城シキ(平塚川添遺跡)、葛城(吉野ヶ里遺跡)、飛鳥アスカ(高良山神籠石)などがある。≫弥生遺跡の比定一覧

地名の痕跡

地名(の痕跡)が残っているにも関わらず、これまで関連づけられることがなかった例もある。例えば、相模サガムは佐賀平野と佐賀関半島にあったが、どちらにも「サガ」の音が残っている。また、佐賀県鹿島市、長崎県諫早市宇都、長崎県雲仙市・諏訪の池、長崎県南島原市加津佐、宮崎県都城市甲斐元町、鹿児島県大崎町永吉駿河などにも地名が残っている。≫地名比定地一覧(九州内にその痕跡が残る地名)

橘を植えた山

九州王権の王都には、その王都を見下ろす場所(原見山)に橘が植えられた。その築造年代も目的も不明とされる古代列石遺跡「神籠石」は、この橘を植えた山である。そして、その場所には「橘/立花」という地名が残っている場合がある。また、「ヤマト」とは「山下やまと」であり、これも「橘を植えた山の麓」という意味であり、「ヤマト」地名も王都の痕跡である。≫神籠石タチバナ地名ヤマト地名

海外の文献に記された地名

中国の歴史書「魏志倭人伝(三国志、280年~成立)」には、邪馬台国のほか、魏使の行程の国々、邪馬台国への経路にある国、女王と対立する狗奴国などの地名が記される。ホツマツタヱの暗号を解読すれば、これらの地名についても真実が明らかになる。≫地名比定地一覧(海外の文献に記された地名) ≫魏志倭人伝の地理

火山

ホツマツタヱには火山に関する記述も多いが、場所の特定が困難であることを踏まえて後世の書物に手がかりが記された。それらの手がかりから、富士山は由布岳と高千穂峰であり、黄泉国神話のイサナミは阿蘇山と九重山だということがわかる。≫ホツマツタヱと火山

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