魏志倭人伝の地理

魏志倭人伝(三国志、280年~成立)には、魏使の行程の国々、邪馬台国への経路にある国、対立する狗奴国などの地名が記される。比定地は次の通り。

  1. 対馬国:(津島国) 住吉の鹿児島。対馬島
  2. 一支国:壱岐国。住吉の鹿児島/佐渡。壱岐島
  3. 末盧国:(松浦まつら国) 日高見の外港。遠賀川河口
  4. 伊都国伊豆ヰツ国。中臣の日高見。京都みやこ平野
  5. 奴国ハナ国。橘の津軽。宇佐平野
  6. 不弥国アフミ国。伊勢の旧都・玉津宮。大分県豊後高田市玉津
  7. 投馬国當麻タエマ国。物部の国・妻。宮崎県西都市妻
  8. 狗奴国:クニ? 天皇家の配流地・日向高屋。宮崎県西諸県郡高原町
  9. 邪馬台国:ヤマト国。天皇家を頂点とする連合同盟の支配地。筑紫平野を中心とした有明海沿岸

魏使の行程の国々

伊都国、奴国、不弥国はホツマの国々

魏使の行程の国々のうち、伊都国、奴国、不弥国は、ホツマ三国の中臣、橘、伊勢の本拠地、日高見、津軽、玉津である。まず、①日高見、②津軽、③玉津が、京都平野、宇佐、豊後高田市玉津にあったことを論証する。

①ホツマツタヱにおける日高見の直接の描写は、「ホツマ国 東遥かに 波高く 立ち昇る日の 日高見や タカミムスビと 国統べて 常世の花を 原見山 香具山となす(4)」である。日高見は東の海沿いにあり、日の出が見える場所にある。「常世の花」とは「橘(たちはな/かぐ)」のことで、九州王権の王都には、その王都を見下ろす場所(原見山)に橘が植えられた。九州北部にはその年代や目的が不明とされる古代列石遺跡「神籠石」が10カ所発見されているが、この神籠石はホツマツタヱに橘を植えた山と記される場所とすべて一致する(≫神籠石)。日高見の香具山は京都平野を見下ろす御所ヶ谷神籠石である。

②津軽はいわゆる「国譲り神話」で山陰王オオナムチが配流された場所である。日隅とも呼ばれる。筑紫山地の東縁を「日」、西縁を「月」に例えた地名で、日隅は東縁をたどっていった行き止まり、国東半島の北西基部である(なお、月隅は日田盆地への入口となる筑後川扇状地の扇頂部であり、そこには「弟橘の阿波岐宮(杷木神籠石)」がある)。日隅と日高見の位置については、アマテルの西山陰への御幸の経路として「日隅日高見 香具山下カグヤマト 二岩浦に(8)」と記される。御幸の出発地「サクナタリ」は「佐久のわたり」の転訛で、済は半島・岬の先端部のことであり、佐久は佐加に転訛して和名類聚抄に海部郡佐加郷として記される佐賀関半島である。二岩浦には「二見の岩」があるとされるが、現在も夫婦岩が残る響灘沿岸の山口県下関市豊北町北宇賀・二見地区に比定できる。つまり、佐賀関半島と響灘の間に、日隅と日高見はあるのである。配流されたオオナムチの宮は津軽大元ツカルウモト宮と記されるが、宇佐神宮の奥宮は御許山おもとさん・大元神社であり、その名称が合致する。

③紀は「東」の意で、東九州全域を表す広域地名でもあるが、その始まりの地は東方国キシイクニの玉津宮である。

急ぎ東方キシイに 行きひらき 田のに立ちて 押草に 扇ぐワカ姫 歌詠みて 祓ひ給えば(略)虫飛び去りて 西の海 ざらり虫去り(略)喜び返す 東方国 天日あひ前宮まえみや 玉津宮 造れば休む 天日宮を 国懸くにかけとなす

「西の海へざらり」という一節は厄払いの末尾の言葉として現在にも伝わるが、九州東岸で西に海が開けている場所は限られている。玉津宮は天日宮(津軽大元宮)の前宮と記されるが、宇佐神宮の北東、桂川をはさんだ対岸の豊後高田市に玉津地名がある。なお、この地名説話にワカ姫が登場するのは、この宮を都とした伊勢がワカ姫の血統を継承した氏族だからである。「休む」とは祀られるという意味である。

魏使の行程の国々の方角と距離

魏使の行程に記される国の方角と距離は次の通り。

①(一支国から)また海を渡ること千余里で末盧国に着く。四千余戸
②東南に陸行五百里で伊都国に着く。王がありみな女王国に統属していた。官は爾支にき。千余戸
③東南の奴国まで百里。官は兕馬觚しまこ。二万余戸
④東行して不弥国まで百里。官は多模たま。千余家

まず、方角と距離について検証していく。

①末盧国を遠賀川河口に比定すると壱岐から直線距離で約80kmであり、短里(一里76~77m)換算で「千余里」と合致する。

②末盧国から伊都国(京都平野)までは「東南に陸行」とされるので、遠賀川から御祓川を遡り、赤村の谷中分水界(標高95m)を越えて今川沿いに京都平野へと下ったものと考えられる。伊都国の中心地については、和名類聚抄にその名も「仲津郡中臣郷」があり、豊前国府跡を含む今川と祓川にはさまれた地域に比定される(『角川日本地名大辞典40福岡県』角川書店、1988年、982頁。原典・日本古典文学大系)。遠賀川河口から中臣までは東南に直線距離で38kmで、「東南五百里」と合致する。

③問題は伊都国から奴国(宇佐)までの距離で、中心地を宇佐神宮とすると東南43kmほどで、魏志倭人伝が伝える「東南百里」ではなく「東南五百余里」となる。

④奴国から不弥国(豊後高田市玉津)については、東北東へ直線距離で7.7kmで、こちらは「東百里」と合致する。

このように、ホツマ三国に比定する地点間の距離は「五百・五百・百」であるのに対して、魏志倭人伝の末盧国からの三国の距離は「五百・百・百」である。しかし方角は申し分なく、距離もたった一箇所「五」の有無の違いがあるだけである。これは魏志倭人伝の脱字(誤記か誤写)を疑うのに十分な事実であろう。

魏使の行程の国々の官

次に官について述べる。

①末盧国については魏志倭人伝に官の記述がない。これは遠賀川流域が京都平野を中心とする日高見国の一部であったことと合致する。

②伊都国の官「爾支」は「ニキ」とされているが、これはネギノのネギで、つまり「禰宜」であろう。ホツマツタヱにおける実例は、ツヅキタルネとトチニイリ姫の婚姻の記事における「タケミクラ 斎主とし イマスの子 タニハミチウシ(オオタタネコ) 御食のもり アメノヒオキ(物部トチネ)は 神主に フリタマ(御笠カシマ)は禰宜ネギ トヨケ神 アマテル神を 祀らしむ(36)」の一例のみである。この記事は近江一国から二王(トヨケ神=東九州の連合の王とアマテル神=丹波連合の王)を出すという異例の事態に関するもので、その背後に陰の実力者・禰宜がいたことが示されている。魏志倭人伝には、「女王国より北には、特に一大率が置かれ、諸国を検察し、諸国はこれを畏れ憚かっている。常に伊都国で治めている」と記される。禰宜とは一大率の和名であり、それが官名として記されたものと考える。
なお、ホツマツタヱは神武東征説話で中臣を「ソフトベ」とのみ記すが、日本書紀は「層富縣波哆丘岬の新城戸畔」と「ニキトベ」に改変している。日本書紀の編纂者は魏志倭人伝に中臣が「ニキ」と記されていることを知っていたはずである。

③奴国の官は「兕馬觚しまこ」と記される。津軽はオオナムチの子・シマツ(実際は娘婿で橘の始祖であるタカヒコネ)の子孫が継承していた。この時の王はシマツミチヒコ(オウス、ヤマトタケ)であった(「日高見の ミチノクシマツ ミチヒコと」「津軽蝦夷は ミチヒコに」(39))。

④不弥国の官は「多模たま」と記される。ワカ姫の系譜を継承した伊勢の紀の玉津宮である。

魏使の行程の国々の国名

最後に国名について考察する。

①末盧は「まつら」で「松浦」(あるいは「松原」)であろう。大河川の河口に発達した砂州は潟湖を形成し稲作に適した土地を生み出す。その砂州に松を植えて保護するということは古代から行われていたものと思われる。比定地の遠賀川河口にも三里松原など砂州の痕跡がある。

②伊都は「いつ」であると考える。中臣の始祖アマノコヤネは再渡来後、島原半島を本拠としており、「伊豆ヰツかみ」の称号を与えられた。「伊豆」は「つ」で、雲仙岳が一夜にして山容を変えることを「つ朝間(伊豆浅間)」としたことがその起源であると記されている(「ウツロヰが 淡海さらえ 水尾のと 人担い来て 朝の間に 中峰成せば 神の名も 伊豆ヰツ浅間峰 山高く 湖深く 並び無し」)。

③奴国の「な」は「タチバナ」の「ハナ」の「な」であろう。ホツマツタヱの「名を借りて」を、日本書紀は「妄假名號(みだりに名号を借りて)」と微修正するが、橘が「な」を名乗っているという暗号とみる。

④不弥国は「タマカワアフミ」の「アフミ」の「ふみ」であると考える。伊勢が宇治に移った後、この地はアフミと名を変えて橘が賜ったと記される(「野に片鐙かたあふみ トラガシハ 拾ひ考え あふみ挿し 今奉る 玉飾り 褒めて賜る 村の名も タマカワアフミ 武蔵ミサシ国 相模の国と 〔橘〕モトヒコに 名づけ賜る 国つ神」)。

邪馬台国への経路にある国・投馬国

投馬国は日本書紀が「當麻」という字を当てているタエマである。
ホツマツタヱはその都は妻でありミケ川上にあると記す。西都原古墳群の地名は西都市(旧妻町)三宅である。
官の名は「彌彌みみ」であり、景行巡幸説話における長の名ミミダレと合致する。
投馬国は不弥国から南へ水行二十日と記される。豊後高田市玉津から西都市妻までは沿岸航海で南へ約240kmであり、一日12kmという計算になる。

女王に属さない国・狗奴国

女王国の南にあり女王に属さない狗奴国とは、配流され再起の機会を窺っていた天皇家の国であり、その場所は宮崎県高原町である。「クニマロも 滝へ身を投げ 悉く 滅び治まる」の続きには次のように記される。

その初め 柏尾の石 長さ六咫むた 幅三咫厚さ 一咫五 皇祈り 跳び上がる かれスミヨロシ 直り神 両羽の社 さらに建て これ祀らしむ 返詣で 根月に至る 仮宮は 日向高屋ぞ(略)筑紫向けんと 六歳まで 高屋の宮に おわします 十七弥生十二 子湯県コユガタ丹裳野ニモノに御幸 を望み 昔思して(略)都の空を 眺む御歌に はしきよし わきへのかたゆ 雲出立ち 雲はヤマトの 国のまほ また棚引くは 青垣の 山も籠れる 山背は 命のまそよ 煙火けむひせば ただ御子思え くの山の 白橿が枝を ウスに挿せこのこ(略)都帰りの 御幸狩り 到る夷守 岩瀬川 遥かに望み 人群れを 弟夷守に 見せしむる 帰り申さく 諸県 主ら大御食 捧げんと イヅミ姫が屋に その集え(38)

柏尾の石の「石」も、六咫にかけた「牟田」も、どちらも辺境への入口のことであり、栢木かやのき地名と大牟田地名が隣接する宮崎県都城市と西諸県郡高原町の境界付近と考える。高原町細野には夷守神社があり、高屋の有力比定地となろう。児湯県の丹裳野は、神武降臨伝承が残る狭野神社のある皇子原おうじばる周辺(高原町蒲牟田)に比定する。当時噴火活動があった霧島連峰の高千穂峰の東麓にあたり(「東を望み」「煙火せば」)温泉もある。

魏志倭人伝が伝える男王の名「狗古智卑狗くこちひく」については、末尾の「ヒク」が景行天皇の諱タリヒコと辛うじて合致する程度である。なお、国名「狗奴国」の「くな」には、景行の子の名クニマロとの間に類音関係を認めることができるかもしれない。

女王の統治(都)する所・邪馬台国

卑弥呼であるヤマト姫の即位した宮は伊勢飯野(大分市猪野付近・地蔵原遺跡)、晩年の宮は磯宮(大分県速見郡日出町真那井)である(≫論証ページは準備中)。魏志倭人伝が「投馬国から南へ水行十日、陸行一月」とする邪馬台国は「女王の統治(都)する所」であって、女王の居場所ではない。

ヤマト姫は御杖代(三女王並立制同盟の最高位の女王位)であり、その女王が統治するのは天皇を頂点とする諸国同盟「ヤマト」である。

邪馬台国の官は「伊支馬いきま弥馬升みましょう弥馬獲支みまかくき奴佳鞮なかてい」であり、イキマはイクメイリヒコ(11代垂仁天皇)、ミマカクキはミマキイリヒコ(10代崇神天皇)、ナカテイは12代景行天皇の妹ヲナカ姫と類音関係がある。

経路前半の「南へ水行十日」は、不弥国から投馬国の水行二十日(240km)の半分である。西都市妻から沿岸航海で南へ120km下ると志布志湾内に着く。志布志湾岸の鹿児島県曾於郡大崎町永吉には駿河地名がある。暗号書「竹取物語」のエピローグには「帝(垂仁天皇)は天に一番近い山とされる駿河の国の山の頂上でカグヤ姫からもらった不死の薬を燃やすように勅使イワカサ(景行天皇の別名イワツクワケの類音)に命じた。兵士を多数引き連れて登って以降、その山は富士の山と名づけられた」とあるが、竹取物語が「駿河」という地名を強調するのは、魏志倭人伝に伝わった経路が駿河経由であることを伝えるためであると考える。

後半の「陸行一月」については景行天皇九州巡幸にヒントがある。九州巡幸の後半部「都帰りの御幸狩り」では、景行天皇は、日向高屋から球磨県(人吉盆地)を経て葦北で八代海側に出たことになっている。駿河から高屋を経て葦北へと抜ける峠越えは現在の道で160km余り、最高標高地点は700m余りで、これを「陸行一月」としたものと考えられる。一日あたり5~6kmという計算になるが、山道であり客人の移動ということを考えれば妥当であろう。方角としては北から北西であるが、後半部については魏志倭人伝には方角が記されていないと解釈することも十分可能である。

なお、葦北から天皇の都・纒向マキムキ(奈良盆地に写された地名の位置関係とその規模から福岡県朝倉市の平塚川添遺跡に比定)まではさらに北へ水行十日以上ある。ヤマトについて魏使に伝えた人々は、九州東岸のホツマに対して、筑紫平野を中心とする有明海沿岸全体をヤマトと呼んでおり、太平洋側から峠を越えて八代海側に出たことをもって諸国同盟「ヤマト」の地に至ったとみなしていたということになろう。