オモタル・カシコネの版図
ホツマツタヱには、記紀にも記されるイサナギ・イサナミの「八島」の前に、三代女王カシコネと九州大王オモタルの代の版図が記されている。
オモタルの神 カシコネと 四方を巡りて 民を治す 近江安曇を 中柱 東は大和 日高見も 西は月隅 葦原も 南阿波蘇佐 北は根の 大和細矛 千足国 (2)
この版図の解釈の最大のポイントは中柱の「近江」の比定にある。「近江」とは「淡海」であり淡水湖である。当時、博多湾といまの福岡平野の低地には砂州が閉じることで形成される巨大な潟湖が存在していた。板付遺跡のような低標高地に水田遺構があるのはその証左である。
そこで中柱を博多湾に比定すると、その版図は次のように比定できる。
- 東は津屋崎、遠賀平野・京都平野
- 西は筑後平野、有明海沿岸
- 南は菊鹿盆地、国東半島・佐賀関半島周辺
- 北は西山陰から山陰中央部を経て東山陰の宮津まで
八島
イサナギ・イサナミの「国生み神話」に記される「八島」は、イサナギとイサナミの版図である。
ホツマツタヱの八島は次のように記される。
大和秋津洲 淡路島 伊予阿波二名 沖三子 筑紫吉備子 佐渡大島 (3)
この一節から地名を比定する際のポイントは、この八島の順番が、八方位表現「ヱヒタメトホカミ(北・南西・東・北西・南・北東・西・南東)」と対応していることに気づくことである。
オモタルの版図を参考にして九州王権の中心を博多湾付近に仮に置き、北から順に対応する場所を比定していくと以下のようになる(古事記が7番目と8番目を入れ替えているので、それに従う)。
- 北:津屋崎
- 南西:糸島半島
- 東:玖珠盆地
- 北西:博多湾
- 南:筑後平野
- 北東:向津具半島
- 西:東松浦半島
- 南東:中津平野
イサナギ・イサナミの版図には西山陰以外の山陰地方が含まれないが、それは二人がオモタル・カシコネと違って女王連合の大王・女王ではなく連合相手国である山陰の上に立つ存在ではなかったからである。そして、中部九州が版図から失われたのは、阿蘇山が噴火し、菊鹿盆地にいた初代大王ウヒチニの一族が連合相手の山陰王権を頼って西山陰へ、東九州にいたサクナギが四国へ避難したからである。