常陸国風土記/出雲国風土記/播磨国風土記/豊後国風土記/肥前国風土記
風土記逸文(山城国/大和国/河内国/摂津国/伊賀国/伊勢国/志摩国/尾張国/参河国/遠江国/駿河国/伊豆国/甲斐国/相模国/上総・下総国/常陸国/近江国/美濃国/飛騨国/信濃国/陸奥国/若狭国/越前国/越後国/丹後国/因幡国/伯耆国/播磨国/備前国/備中国/備後国/長門国/紀伊国/淡路国/阿波国/讃岐国/伊予国/土佐国/筑前国/筑後国/肥前国/肥後国/豊前国/豊後国/日向国/大隅国/薩摩国/壱岐国/その他)
常陸国風土記
信太郡
東は信太流海、南は南榎浦流海、西は毛野河、北は河内郡。
古老曰はく、御宇難波長柄豊前宮天皇の御世、癸丑年に、小山上物部河内・大乙上物部会津等と、惣領高向大夫等と、筑波・茨城郡の七百戸を分ちて、信太郡を置く。此の地は、本、日高見国なり。云々。【釈日本紀の逸文】
黒坂命、陸奥の蝦夷を征討事ありき。凱旋りて、多歌郡の角枯之山に及るに、黒坂命病に遇ひて身故りたまふ。爰に、角枯を改めて、黒前山と号く。黒坂命の輪轜車、黒前之山より発ちて、日高之国に到るに、葬具の儀、赤旗、青幡、交雑り飄颺りて、雲と飛び虹と張り、野を瑩らし営路を耀かせり。時の人、「赤幡垂る国」と謂ひき、後世の言に、便ち改めて信太国と称ふ。云々。【萬葉集註釈の逸文】
郡の北に十里、碓井ありて、古老曰く、大足日子天皇、浮嶋の帳宮に幸ときに、水の供御無し。即ち、卜者を遣し訪占はしめ、所所を穿しめたまひき。今も雄栗の村に在りき。
從此西に、高來里あり。古老曰く、天地の権輿、草木の言語し時に、天降來たる神、名を普都大神と稱へ給ふ。葦原中津之國を巡り行きまして、山河の荒ぶる梗の類を和平め給ふ。大神は化道已に畢へて、心に天に帰らむと存へり。即時、身に随し器仗、甲、戈、楯、劔、及た執す所の玉珪に到るまで悉く皆脱屣給ひき。茲地にし留め置きて、即ち白雲に乗りて、蒼天に昇り還りき。
風俗の諺に云く、葦原の鹿の其の味は爛れるが若く、喫ふに山宍と異にあり、二國大き猟すれど、絶へ尽すべくも無し。
其の里の西の飯名社、此即ち筑波岳に有る所の飯名神の別属なり。
榎浦の津、便ち駅家を置けり。東海の大道にして、常陸路の頭なり。所以、伝駅使ら、初めに國に臨まむとするに、先づ口と手を洗め、東に面きて香嶋大神を拜み奉り、然る後に入るを得る。
古老曰く、倭武天皇海辺を巡幸て、乗浜に行き至りき。干時、浜浦の上、海苔多く乾せり。是に由て、能理波麻之村と名く。
乗浜の里の東に、浮嶋村有り。長さ二十歩、廣さ四百歩。四面は海に絶れ、山野と交錯れり。戸は十五烟、里は七八町余り。居る百姓は、塩を火きて業と為す。而て九の社有て、言も行も謹諱めり。
茨城郡
東は香嶋郡、南は佐礼流海、西は筑波山、北は那珂郡。
古老曰く、昔國巣在りき。俗の語に都知久母、又、夜都賀波岐と云ふ。山の佐伯、野の佐伯。普く土窟を置け掘りて、常に穴有る人来れば、則ち窟に入りて竄る。其れ人去らば、更郊に出て遊く。狼の性、梟の情にして、鼠のごとく窺ひ掠め盗み、招慰へらゆること無く、彌風俗と阻てり。此の時、大臣の挨黒坂命は出で遊きの時を伺候ひて、茨蕀を以て穴の内に施き、即ち騎兵を縦ちて、急に逐ひ迫めしむ。佐伯等、常の如く欲く走り帰る。則ち、土窟の茨蕀に尽く繋りて、衝き害疾はえて、死り散る。故、茨蕀を取りて縣の名と著しき。
所謂茨城郡、今は那珂郡の西に存り。古者の家を置ける所は、即ち茨城郡の内なり。風俗の諺に云く、水依りて茨城の國なり。
或は曰く、山の佐伯、野の佐伯、自ら賊の長と為りて、徒衆を引率て、國中を横に行て、太きに劫め殺き。時に黒坂命は此の賊を規り滅ぼさむとして、茨を以て城を造りき。所以、地の名を、便ち茨城と焉に謂ふなり。茨城の國造の初祖、多祁許呂命、息長帯比売天皇の朝に仕へ、品太天皇が誕れませる時に至るまで当たれり。多祁許呂命、子八人有り。中男、筑波使主は、筑波郡の湯坐連等の初祖なり。
郡の西南に、近く河間有り。信筑の川と謂ふ。源は筑波の山より出て、西より東に流れて、郡の中を経歴て、高浜の海に入る。夫此の地の者、芳菲嘉き辰、揺落る凉しき候、駕に命て向ひ、舟に乗りて、游ぶ。春は浦の華千に彩り、秋は是岸の葉百に色く。鶯の歌を野の頭にて聞き、鶴の儛を渚に覧る。社郎と漁嬢は濱洲を逐りて輻湊まり、商竪と農夫は、䑧艖を棹して往来ふ。況乎、三夏の熱き朝、九陽の至る夕、友を嘯び僕を率ゐて、浜曲に並び坐りて、海中を騁せ望む。濤の氣稍く扇げば、暑きを避け、鬱陶しきの煩ひを袪き、岡の陰、徐に傾けば、凉しきを追ふ者は歓然の意を軫かす。詠歌に云く、
多賀波麻尓、支與須留奈彌乃、意支都奈彌、與須止毛與良志、古良尓志與良波
又云く、
多賀波麻乃、志多賀是佐夜久、伊毛乎、比川麻止伊波、阿夜志古止賣志川。
郡の東十里、桑原岳あり。昔、倭武天皇、岳の上に停留まりたまひき。御膳を進奉し時、水部をして新に清き井を掘らしめたまふ。出泉、浄く香しく、飲喫に尤好。勅云りたまひしく、能く渟る水かな。是に由て、里の名を田餘と今に謂う。
出雲国風土記
(略)老、枝葉を細しく思ひ、詞源を裁り定む。亦、山野、濱浦の処、鳥獣の棲、魚貝、海菜の類、良に繁多にして、悉には陳べず。然はあれど止むことを獲ぬは、粗、梗概を挙げて、記の趣をなす。
八雲といふ所以は、八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ」と詔りたまひき。故、八雲立つ出雲と云ひき。(略)
意宇郡【国引き神話】
意宇と号けし所以は、国引き坐しし八束水臣津野命、詔りたまひしく、八雲立つ出雲国は、狭布の稚国在るかも。初国小さく作らせり、故、作り縫はむと詔りたまひて、拷衾志羅紀の三埼を、【童女の胸鉏取らして、大魚のきだ衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛闇耶闇耶に、河船の毛曽呂毛曽呂に】 去豆の折絶より、八穂尓米支豆支の御埼なり。此を以て、堅め立てし加志は、石見国と出雲国の堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。
北門の佐伎の国を、【繰り返し】 多久の折絶より、狭田の国、是なり。
北門の良波の国を、【繰り返し】 宇波折絶より、闇見国、是なり。
高志の都都の三埼を、【繰り返し】 三穂の埼。持ち引ける綱は、夜見嶋。堅め立てし加志は、伯耆国なる火神岳、是なり。
今は、国は引き訖へつと詔りたまひて、意宇社に御杖衝き立てて、意恵と詔りたまひき。故、意宇と云ひき。〔所謂意宇社は、郡家の東北の辺、田の中にある壟、是なり。周り八歩ばかり。其の上に一もとの茂れるあり。〕
童女の胸鉏取らして:「胸」は宗像、「スキ」は在来王族。三姫(宗像三女神)の長女タケコが、元服(童女)と同時に在来王オオナムチと結婚したことを示している。
大魚のきだ衝き別けて:「魚」は海洋王、「大魚」とは住吉、宗像、久米の三大海洋王のこと。三姫の二女タナコの子孫がそれぞれの海洋王の系譜統合の女王(アヒラツ姫、アメミチ姫、イスキヨリ姫)となったことを示している。
波多須々支穂振り別けて:「はた」は「八幡」、「すすき」はタタライソスス姫のこと。同じアメミチ姫の子孫から八幡とタタライソスス姫を区別し、タタライソスス姫だけがワカ姫の血統を継承する正統な女王とみなされたことを指している。
三身の綱打ち挂けて:三姫の三女(みつみ)タナコはイフキトヌシと結婚したが、その子孫ナガスネヒコは討伐された。この部分はそのことを示している。
霜黒葛闇耶闇耶に:「霜」は春日、「葛」は男系断絶による系譜統合の隠語。春日のもとに来た系譜統合に関わる女王といえば、ウサコ姫。「黒」はアマツヒコネの隠語だが、ここでは「黒坂」に追放されたホノススミ。ホノススミとスセリ姫(アメミチ姫の子)には男子がなく、女子ミチツル姫が系譜統合の女王となってシイネツヒコに嫁ぎ、生まれたのがウサコ姫である。
河船の毛曽呂毛曽呂に:ホノススミの黒坂追放まで時間がかかったことと合わせて、長距離の舟運路を辿った先にある黒坂の場所を示している。
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拷衾志羅紀の三埼を、… 去豆の折絶より、八穂尓米支豆支の御埼なり。此を以て、堅め立てし加志は、石見国と出雲国の堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。
拷衾志羅紀の三埼を:4代新羅王タケヒテル(脱解)の子タケトメが出雲に三十九宝(銅鐸)を納めたことを伝える。
去豆の折絶より:男子をもうけるための再婚を望み続けて実現せず、男系が断絶したホノススミのこと。
八穂尓米支豆支:杵築はオオナムチの配流地・稲佐(佐賀県白石町・稲佐山)。「しね」は「死ね」で配流か。八穂は配流期間でここでは通常年暦の8年を指すと考える。
加志は、石見国と出雲国の堺なる:加志は柏で分水界の先の最前線拠点。ホノススミの配流地・黒坂(鳥取県日野町黒坂)を指す。当時は江の川水系全体が「石見」とみなされていたか。
名は佐比売山:ホノススミが配流後に77歳で迎えた妻の名か。黒坂から日本海側に日野川を下った場所に、佐川、笹苞山などの地名があり、この周辺が「さ」という地域だった可能性が高い。
薗の長濱:「園」は春日を盟主とする王権のこと、「浜」は配流の隠語。「長濱」とは無期限配流(永久追放)を指すか。
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北門の佐伎の国を、… 多久の折絶より、狭田の国、是なり。
北門の良波の国を、… 宇波折絶より、闇見国、是なり。
北門:北九州市域のこと
佐伎の国 … 多久の折絶より、狭田の国:四方位表現「東西南北」の「南東」。北九州市域の南東にあるのは豊前海(周防灘)沿岸であり、その先には四国がある。もともと四国にいて、アマノコヤネ渡来時に豊前海沿岸の日高見香具山(福岡県行橋市)に配流されていたのはフツヌシ。「狭田(佐田)」の「さ」は「相模」の「さ」で、フツヌシの父カグヤマツミが娶った三姫(宗像三女神)の中子タキコが崩御したと記される「相模江の島(佐賀県小城市・牛尾山)」のこと、「多久」は倭名類聚抄に「高来」と記される地名で、フツヌシがアマノコヤネ渡来以来、アメミチ姫の女王擁立に動くまでの期間住んでいた「上総の九十九(長崎県布津町)」のこと。
良波の国 … 宇波折絶より、闇見国:「良波」の「え(ゑ)」は八方位表現「ヱヒタメトホカミ」の「北」、「波」は沿岸部。北九州市域の北にある沿岸部、西山陰の響灘沿岸にいたのはオオトシ。
「宇波」は「卯川(下関市豊浦町宇賀)」のことで、「闇見国」とは九州王権の支配が及ばない地域「クラ(山陰)」と向き合う国という意味だと思われる。
折絶:フツヌシとオオトシはどちらも有明海沿岸に移動した後に男系が断絶した。フツヌシは娘のアメミチ姫をホノアカリに嫁がせて、その子カゴヤマの系譜に統合され、オオトシは子のカツテの娘タマネ姫がやはりホノアカリに嫁いで、生まれた子ニギハヤヒの系譜に統合された。
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高志の都都の三埼を、… 三穂の埼。持ち引ける綱は、夜見嶋。堅め立てし加志は、伯耆国なる火神岳、是なり。
高志の都都:越(ここでは合志=熊本のこと)の舟運路。舟運路に配流されたのはミケイリ。
夜見嶋:ミケイリの居場所が黄泉国神話の舞台であることを伝える。
加志は、伯耆国なる火神岳:伯耆国は古事記が黄泉国の場所として記した国名。
三穂の埼:ミケイリの配流期間「3年(5穂)」を示す。
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国は引き訖(を)へつと詔りたまひて、意宇社に御杖衝き立てて:「国を退き終える」で、ホノススミが九州女王連合同盟から排除されたことを、「杖」は配流の隠語で「杖衝き立てて」とは意宇社に配流されたことを示している。
意宇社は、郡家の東北の辺:「意宇社」を黒坂の聖神社に比定すると、その南西の郡家があったとされる場所には「近江」地名がある。地形的にも堰止湖(淡海)があってもおかしくない場所であり、そこが本当の「意宇の海」である。
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風土記逸文
山城国風土記逸文
賀茂社(釈日本紀 1275-1301)
山城の國の風土記に曰はく、可茂の社。可茂と稱ふは、日向の曾の峯に天降りましし神、賀茂建角身命、 神倭石余比古の御前に立ちまして、大倭の葛木山の峯に宿りまし、 彼より漸に遷りて、山代の國の岡田の賀茂に至りたまひ、山代河の隨に下りまして、葛野河と賀茂河との會ふ所に至りまし、 賀茂川を見迥かして、言りたまひしく、「狹小くあれども、石川の淸川なり」とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基に定まりましき。爾の時より、名づけて賀茂と曰ふ。賀茂建角身命、丹波の國の神野の神伊可古夜日女にみ娶ひて生みませるみ子、名を玉依日子と曰ひ、次を玉依日賣と曰ふ。玉依日賣、石川の瀬見の小川に川遊びせし時、丹塗矢、川上より流れ下りき。乃ち取りて、床の邊に插し置き、遂に孕みて男子を生みき。人と成る時に至りて、外祖父、建角身命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて、七日七夜樂遊したまひて、然して子と語らひて言はく、 汝の父と思はむ人に此の酒を飮ましめよとのりたまへば、即て酒坏を擧げて、天に向きて祭らむと為、屋の甍を分け穿ちて天に升りき。乃ち、外祖父のみ名に因りて、可茂別雷命と號く。謂はゆる丹塗矢は、乙訓の郡の社に坐せる火雷神なり。可茂建角身命、丹波の伊可古夜日賣、玉依日賣、三柱の神は、蓼倉の里の三井の社に坐す。
ホツマツタヱの「白羽の矢神話(27)」の「白羽の矢来て 軒に刺す 主の穢の 留まりて 思はず男子 生み育つ 三つなる時に 矢を指して 父と言う時 矢は昇る ワケイカツチの 神なりと 世に鳴り渡る」という一節を補完する暗号である。
人と成る時に至りて:タケスミの孫ミケイリが3穂(2歳)になった時である。
子と語らひて言はく汝の父と思はむ人に此の酒を飲ましめよ:「子」とは孫ミケイリではなく、娘の夫のイナイイであり、「汝の父」とはイナイイの父である。
盃を挙げて天に向けると屋根を破って天に昇った:父は天にいて、そのあとを追って天に昇った。すなわち、イナイイは父ニニキネとともに鹿児島(壱岐対馬)に配流された。
外祖父の御名に因りてカモワケイカツチと名づける:ホツマツタヱはワケイカツチをニニキネと明記するが、実際はアマノコヤネである。ただし、白羽の矢神話においては、そのままニニキネと読めばよい。「外祖父の御名に因りて」の部分は、それに「カモ」を冠したことを指している。つまり、カモワケイカツチとは、ワケイカツチ・ニニキネとカモ・タケスミの子同士の婚姻によって、イナイイが賜った名である。
※この暗号は、「白羽の矢神話」の「矢(イナイイ)、タマヨリ姫、ミケイリ」に「矢(ニニキネ)、トヨタマ姫、イナイイ」が重ね合わされていることを知らせるためのものである。
※なお、民間に伝承された「白羽の矢神話」は、夫イナイイを追放されたタマヨリ姫がイツセと再婚するために召される、という後半部分が伝わったものである。
※「久我の国の北の山基」は玖珠盆地北部の山下に比定する。当地の大御神社の祭神にはタケイワタツ(ミケイリ)が名を連ねる。
摂津国風土記逸文
夢野・刀我野(釈日本紀 1275-1301)
雄伴の郡。夢野あり。父老の相伝へて云いへらく、昔者、刀我野に牡鹿ありき。その嫡の牝鹿はこの野に居り、その妾の牝鹿は淡路の国の野島に居りき。かの牡鹿、屡野島に往きて、妾と相愛しみすること比なし。既にして、牡鹿、牝鹿の所に来宿りて、明くる旦、牡鹿、その嫡に語りしく、「今夜夢みらく、吾が背に雪零りおけりと見き。又、すすきと曰ふ草生ひたりと見き。この夢は何の祥ぞ。」といひき。その嫡、夫の復妾の所に向かむことを悪みて、乃ち詐り相せて曰ひしく、「背の上に草生ふるは、矢、背の上を射む祥なり。又、雪零るは、白塩を宍に塗る祥なり。汝、淡路の野島に渡らば、必ず船人に遇ひて、海中に射死されなむ。謹、な復往きそ。」といひき。その牡鹿、感恋に勝へずして、復野島に渡るに、海中に行船に遇逢ひて、終に射死されき。故、この野を名づけて夢野といふ。俗の説に云へらく、「刀我野に立てる真牡鹿も、夢相のまにまに」といへり。
「タケコ姫 多賀に詣でて 物主が 館に終われば ススキ島 亡骸納め 竹生神」(28文)に対する暗号である。
宇佐(刀我野=莵餓野(紀))の橘(牡鹿)のもとにはウサコ姫(嫡)が、多賀(淡路の野島)には大物主クシミカタマの后となったミラ姫(妾)がいた。ウサコ姫がアメタネコの后となって春日との連合が成立し(雪が降る)、ミラ姫にはタタライソスス姫が、ウサコ姫にはミススヨリ姫が生まれた(ススキが生える)。
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伊賀国風土記逸文
伊賀国号(一)・伊賀津姫(今井似閑『万葉緯』巻十七「風土記残篇」1717)
(略)本、此の号は、伊賀津姫の領る所の郡。仍りて郡の名と為す。亦、国の名と為す。西は高師川を限り、東は家冨の唐岡を限り、北は篠嶽を限り、南は中山を限る。土地は中肥にして、民は山川あるを用って、業するに足れり。(略)
北に小竹宮があり、南に中山があるのは、山田(島根県益田市黒周町)。もうひとつ、分水界が南側にあるという立地にあるのが黒坂(鳥取県日野町)。この二か所には立地以外にも共通点がある。それは王がその辺境である「伊賀」の地にいた時に、在来王族の女子と結婚したという点である。そのことが「伊賀津姫が領る所」と記されているとみる。
「伊賀国号(二)」の記事と合わせると、伊賀国風土記には6か所の伊賀が記されていることになる(山田、黒坂、二荒、大津小竹宮、青垣殿、日向高屋)。
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伊賀国号(二)・吾娥郡(今井似閑『万葉緯』巻十七「風土記残篇」1717)
伊賀の郡。猿田彦の神、始め此の国を伊勢の加佐波夜の国に属けき。時に二十余万歳此の国を知れり。猿田彦の神の女、吾娥津媛命、日神之御神の天上より投げ降し給ひし三種の宝器の内、金の鈴を知りて守り給ひき。其の知り守り給ひし御斎の処を加志の和都賀野と謂ひき。今時、手柏野と云ふは、此れ其の言の謬れるなり。又、此の神の知り守れる国なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき。其の後、清見原の天皇の御宇、吾娥の郡を以ちて、分ちて国の名と為しき。其の国の名の定まらぬこと十余歳なりき。之を加羅具似と謂ふは虚国の義なり。後、伊賀と改む。吾娥の音の転れるなり。
加佐波夜:二荒(諫早地峡)。地峡の東側には宇都宮(諫早市宇都町)、西側には伊賀峰がある。
猿田彦の神の女、吾娥津媛命:サルタヒコの娘ウケステメが渡来した北九州市域。「金の鈴」はタタライソスス姫の祖先。「守る」から筑前域の安方・大津小竹宮(戸畑区菅原)を指すことがわかる。
此の神の知り守れる国なるに依りて、吾娥の郡と謂ひき:サルタヒコの子ツミハが配流された四国の青垣殿(高知県阿川郡仁淀川町)。
加羅具似:韓国岳の東麓にある12代景行天皇の配流地、日向高屋(宮崎県小林市/高原町)。
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近江国風土記逸文
伊香小江(帝王編年記 1364-1380)
古老の伝へて曰ふ。近江国伊香郡。与胡郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、俱に白鳥と為り、天より降りて、江の南の津に浴む。時に、伊香刀美、西の山にありて遥かに白鳥を見る。其の形奇異し。因りて若し是れ神人かと疑ふ。往きて見る。実に是れ神人なり。ここに伊香刀美、即ち感愛を生し、得還り去らず。窃かに白き犬を遣り、天衣を盗み取る。弟の衣を得て隠す。天女、乃ち知る。其の兄七人は天上に飛び昇る。其の弟一人は得飛び去らず。天路永く塞す。即ち地民と為る。天女の浴む浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家と為り、此処に居り。遂に男女を生む。男二たり女二たり。兄の名は意美志留、弟の名は那志登美、女は伊是理比咩、次の名は奈是理比売、此は伊香連等が先祖、是なり。後、母、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇る。伊香刀美、独り空しき床を守る。唫詠断まず。
「八女」は「八幡」で、タカヒコネとアメミチ姫(ヨト姫)の四人の女子の八人の子孫のことであり、「伊香」は「宇佐」、「与胡」は「名児」である。
「南の津の西の山」とは到津八幡神社(北九州市小倉北区)の西側にある菅原神社(北九州市戸畑区)であり、伊香刀美はシイネツヒコ、シイネツヒコと夫婦になったのはミチツル姫、「白い犬」とはミチツル姫の父ホノススミだ。ホノススミが「白い犬」なのは、その別名が「白鬚」で、山陰の卯川宮(下関市豊浦町宇賀)にいたからである(犬は山陰の王族の隠語)。この「白い犬」が「天衣を盗む」のは、ホノススミが娘ミチツル姫を同盟国諸国の意向に反して王位継承権のない相手(四国のタケフツ)と婚姻させようとしたことを伝えている。
伊香刀美と天女の間の二男二女のうち、実子はウサツヒコとウサコ姫。ホツマツタヱは娘の夫を実子と偽装することが多いので、この風土記逸文でも同じ手法が使われているとすると、二男のうち一人はウサコ姫の夫アメタネコのことではないかと考えることができる。だとすれば、二女のうちの一人はアメタネコの妹ヤセ姫のことかもしれない。
風土記逸文が記す二男二女の名は、男子はオミシルとナシトミ、女子はイゼリ姫とナゼリ姫。
オミシルは「臣知る」でウサツヒコが女王連合から排除されたことを知らせている。
ナシトミはウサコ姫の夫アメタネコが「中臣」の系譜であることを知らせているのだろう。「宇佐(ウサ)」が「伊香(イカ)」と記されているのは「サ行とカ行を交換せよ」という暗号だ。
さらに、それは「ウとイを交換せよ」という暗号でもあるので、イゼリ姫はウサコ姫。
そして、「名児(ナコ)」を「与胡(ヨコ)」とするのは「ナ行とヤ行を交換せよ」という暗号ということになり、ナゼリ姫をヤセ姫と読むことができるのである。
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陸奥国風土記逸文
鹽竈の明神の巫女(藤原範兼『和歌童蒙抄』注 1145)
昔、陸奥の神、鹽竈の明神に誓ひ申ことありて、一人娘を率て参りて、彼の神の実殿の内に押し入れて帰りけり。(略)それより、この神の命婦は、宮司の飾らむ限りは、親娘互いに見ゆまじと誓へり。
ホノススミ(陸奥の守)は、タカヒコネ(塩釜)のもとに一人娘ミチツル姫を置いたまま、卯川に配流された。それ以来、ホノススミの子孫は、連合同盟諸王の許しがなければ、ミチツル姫の子孫である女王と婚姻し連合に復帰することはできないとされた。
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丹後国風土記逸文
天椅立(釈日本紀 1275-1301)
丹後国の風土記に曰はく、與謝の郡。郡家の東北の隅の方に速石の里あり。此の里の海に長く大きなる前あり。長さは一千二百廿九丈、広さは或る所は九丈以下、或る所は十丈以上、廿丈以下なり。先を天の椅立と名づけ、後を久志の浜と名づく。然云ふは、国生みましし大神、伊射奈芸命、天に通ひ行でまさむとして、椅を作り立てたまひき。故、天の椅立と云ひき。神の御寝ませる間に仆れ伏しき。仍ち久志備ますことを恠みたまひき。故、久志備の浜と云ひき。此を中間に久志と云へり。此より東の海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ。是の二面の海に、雑の魚貝等住めり。但、蛤は乏少し。
東北の隅:九州の東北に位置する北九州地方
速石の里:速吸門(関門海峡)の近く
天の椅立:日高見と住吉の子アマツヒコネと新海洋王サルタヒコの娘ウケステメ(トヨ姫アヤコ)の婚姻 ※「天」は渡来王。この一文のイサナギはアマツヒコネである。
久志の浜:配流地 ※「櫛」も「浜」も配流地の隠語。
神の御寝ませる間に仆れ伏しき、仍ち久志備ますことを恠みたまひき:ツミハがウケステメの娘トヨタマ姫と婚約しながら、ハツセ姫(タマクシ姫)との婚姻を強行し、四国に配流された
此より東の海を與謝の海と云ひ、西の海を阿蘇の海と云ふ:東の海は四国(伊予と土佐を合わせて「與謝」としたか)につながる周防灘、西の海は有明海(阿蘇の海)
此を中間に久志と云へり:北九州地方の配流地 ※「中つ代」とすることで「先」と「後」が「先の代」と「後の代」と解釈できることを知らせるとともに、四国と有明海の中間の「此=北九州地方」も配流地であったことを伝えている。直前のくだりも、先の代では歴史的な婚姻の舞台であったこの地が、後の代には配流地になったと読むことができる。
是の二面の海に、雑の魚貝等住めり:有明海(阿蘇の海)に配流されたのはミケイリ(魚)、四国(與謝の海)に配流されたのはツミハ(櫂) ※「雑」は「草」のことで配流の隠語
蛤は乏少し:イナイイは別の場所(離島=壱岐)に配流された ※「蛤」は「浜栗」で、配流された(浜)イナイイ(栗)のこと。
≫考察記事
浦嶼子(釈日本紀 1275-1301)
【抜粋】
即ち不意の間に海中の博く大きなる島に至りき。其の地は玉を敷けるが如し。闕台は晻映く、楼堂は玲瓏きて、目に見ざりしところ、耳に聞かざりしところなり。手を携へて徐ぶるに行きて、一つの太きなる宅の門に到りき。女娘、「君、且し此処に立ち給へ」と曰ひて、門を開きて内に入りき。即ち七たりの竪子来て、相語りて「是は亀比売の夫なり」と曰ひき。亦、八たりの竪子来て、相語りて「是は亀比売の夫なり」と曰ひき。茲に、女娘が名の亀比売なることを知りき。乃ち女娘出で来ければ、嶼子、竪子等が事を語るに、女娘の曰ひけらく、「其の七たりの竪子は昴星なり。其の八たりの竪子は畢星なり。君、な恠しみそ」といひて、即ち前立ちて引導き、内に進み入りき。
昴星と畢星:カゴヤマ(嶼子)がオトタマ姫(亀比売)の家の門の前で待っていると、7人の子どもが来て、続けて8人の子どもが来る。この子どもはオトタマ姫が養育していたウカヤフキアワセズを表し、「15人の子ども」はウカヤの年齢を表す。すなわち、カゴヤマはオトタマ姫との婚姻のために鹿児島(壱岐対馬)に赴き、そこでウカヤの存在を知った、その時ウカヤは15歳だった、ということを伝える暗号である。
※万葉集・浦嶋子を補完する暗号である。
≫万葉集・浦嶋子
奈具社(古事記裏書 1424・元元集 1337)
【暗号部分のみ抽出】
舞台は丹後国丹波郡の郡家の西北の隅にある「比治の里」。
天女が水浴びをしていたのは「比治山」の頂にある「真那井」の泉(いまは沼とされる)。
老夫婦に衣裳を隠されて子どもになってほしいと懇願され、十余年を過ごしたにもかかわらず、突然追い出された天女が行き着いたのが「荒塩の村」。
次に槻の木にすがりついて泣いた「哭木の村」。
そして、最後に行き着いて住むことになったのが「竹野郡船木の里の奈具の村」。
安芸の国(北九州市)の話である。同様の暗号に「近江国風土記逸・伊香小江」がある。近江国風土記逸文がミチツル姫と夫シイネツヒコの話であるのに対して、丹後国風土記逸文はミチツル姫と父ホノススミの話である。
郡家は「岡の港=竹水門」(小倉北区横代)であり、その西北にある「比治の里」とは到安方運河(小倉北区上到津~戸畑区菅原)のある勿来。「奈具」は「名児=勿来」であろう。
「荒塩」はホツマツタヱに「代々荒潮の 八百会の 浸せど錆びぬ 神鏡(8文)」と記される「八百会」の比定地、関門海峡のことである。
「竹野郡」というのはタケリ宮(小倉北区須賀町)から竹水門にかけての地域、「船木」はその地域にあって「水茎」と呼ばれた穴門運河のこと、「哭木(なきき)」は「花茎(はなくき)」と呼ばれた到安方運河のことだと考えられる。
その頂に「真那井」があるとされる「比治山」は現在の金毘羅山であろう。その東麓にはいまも金毘羅池がある。到安方運河のすぐ南側にあたり、この水源に堰を作ればすぐに水位調整用施設として整備できる立地である。「泉がいまは沼になった」とするのは、そのことを伝えているのではないか。
そして「真那井」という地名。国境を表す地名「ナコ(勿来、名護屋)」は、山間部では「マナコ」である。この「マナ井」もまた国境を意味する地名のひとつであるようだ。
「比治山」の「ヒジ」は、現在「土」という漢字が「ひじ」と読まれるように「土・泥」という意味。舟運路整備の条件として、干潟の「鏡」、岩盤の「岳(たけ)」と対比される概念であるとみる。
≫考察記事
国号(海部氏勘注系図割注)
丹波と号くる所以は、昔、豊宇気大神、当国の伊去奈子嶽に天降り坐しし時、天道日女命等、大神五穀及び桑蚕等の種を請ひき。便ち其の嶽に、真名井を掘り…
「大神五穀」とは女王連合同盟を構成する盟主と5つの王族、「桑蚕等」は2つの海洋王族のこと。この8つの王族による4つの連合の女王として、アメミチ姫とタカヒコネの4人の女子が擁立されたことを「種を請う」と表現している。それをトヨウケが「丹波」に天降った時のことだとするのはもちろん虚偽である(実際は70年も時代が違う)が、これはトヨウケの向かった宮津とアメミチ姫のいた到津(宇佐)が同じ場所であることを知らせるとともに、その場所の地名が後に丹波に写されたことを知らせる暗号ともなっている。
≫考察記事
伊予国風土記逸文
御嶋(『釈日本紀』巻六「大山祇神」1275-1301)
伊予国の風土記に曰ふ。乎知の郡。御嶋。坐す神の御名は大山積神、一名は和多志大神なり。是の神は、難波高津宮に御宇しめしし天皇の御世に顕れましき。此神、百済国より度り来まして、津国の御嶋に坐しき。云々。御嶋と謂ふは、津国の御嶋の名なり。
熊野岑(『釈日本紀』巻八「熊野諸手船」1275-1301)
伊予国の風土記に曰はく、野間郡、熊野の岑。熊野と名くる由は、昔時、熊野と云ふ船を此に設りき。今に至るまで、石と成りて在り。因りて熊野と謂ふ、本なり。
高縄半島に半島横断舟運路があったことを伝えている。舟運路の遡る川は「立岩川」である。下った先には「阿方」「立花」などの関連地名がある。太平洋に抜ける大分水界横断ルートの「久万」地名が、「熊野」を起源とすることを伝えている可能性もある。また、四国北西部が阿蘇山噴火の火山灰被害を広く受けたことを示しているとみる。
温泉(『釈日本紀』巻十四 1275-1301)
天皇等の湯に幸行すと降りまししこと、五度なり:四国に配流された諸王は5人、ソサノヲ、イフキトヌシ、ツミハ、タケフツ、トカクシであることを知らせている。続けて後世の天皇ら5組のことを記すのは攪乱である。
日月は上に照りて私せず。神しき井は下に出でて給はずといふことなし。:日月は日嗣(日高見の正統な後継者)のことで、
時に、大殿戸に椹と臣木とあり。其の木に鵤と比米鳥と集まり止まりき。:大殿戸は「青垣殿」のこと。斑鳩宮(福岡県・志賀島猪狩)の主がツミハであること、三島(沖三つ子、志賀島を含む博多湾の三つの島のこと)ミゾクイ(イワマド=トヨマド)の女子タマクシ姫(ハツセ姫)も同じように配流されたことを知らせている。
天山(釈日本紀 1275-1301)
伊予国の風土記に曰はく、伊予郡。郡家より東北のかたに天山あり。天山と名づくる由は、倭に天加具山あり。天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端は此の土に天降りき。因りて天山と謂ふ、本なり。其の御影を敬礼ひて、久米等が奉れり。
ホツマツタヱの「伊予のイフキは 天山に 写し田を成す(24)」に呼応した暗号である。
天から降りてきた時に二つに分かれてヤマトの香具山と伊予の天山になった:ツミハの追放後、反乱を企図したフツヌシ(カグヤマ)とツハモノヌシ(イフキトヌシ=フトタマ)も追放された(暗号「猿去る沢に起こる道かな」)。この暗号は、その配流先が日高見(福岡県行橋市/みやこ町)の香具山下(香具山は御所ヶ谷神籠石)と、伊予の天山(愛媛県松山市立花、天山は松山城のある勝山)であることを伝えている。
土佐国風土記逸文
土左高賀茂大社(『釈日本紀』巻十二、十五 1275-1301)
土左国の風土記に曰ふ。土左郡。郡家の西に去ること四里に土左の高賀茂大社あり。其の神のみ名を一言主尊と為す。其の祖は詳かならず。一説に曰へらく、大穴六道尊の子、味鉏高彦根尊なりといへり。
※高賀茂大社は土佐一宮の土佐神社に比定されているようだが、朝倉神社の西方15kmのところにある賀茂神社(佐川町加茂)のほうがふさわしい。
天河命・浄川媛命(吉田家蔵某書断簡「雅事問答」)
風土記に曰はく、土左の郡家の内に社あり。神の名は天の河の命なり。その南に道下りて社あり。神の名は浄川媛の命、天の河の神の女なり。その天の河の神は土左の大神の子なり。
トサツヒコ(天の河の命)の宮が現在の朝倉神社、その娘ミカシヤ姫の宮はその南にあった。玉嶋のことであり、鵜来島が有力比定地である。
朝倉社(『釈日本紀』巻十四 1275-1301)
土左国の風土記に曰ふ。土左郡。朝倉郷あり。郷の中に社あり。神のみ名は天津羽羽神なり。天石帆別神、今の天石門別神のみ子なり。
天津羽羽神はニギハヤヒの后でウマシマチの母ミカシヤ姫。その父とされる天石門別神は天岩戸神話に登場するミカシヤ姫の曾祖父イフキトヌシ(ツハモノヌシ)のこととみる。天石帆別神は四国に遠洋航海技術によって渡ってきたことをさすか。
玉嶋(『釈日本紀』巻十 1275-1301)
土左国の風土記に曰ふ。吾川郡・玉嶋。或る説に曰へらく、神功皇后、国巡りましし時、御船泊てき、皇后、嶋に下りて磯際に休息ひまし、一つの白き石を得たまひき。団きこと鶏卵の如し。皇后、御掌に安きたまふに、光明四もに出でき。皇后、大く喜びて左右に詔りたまひしく、「是は海神の賜へる白真珠なり」とのりたまひき。故、嶋の名と為す。云々。
筑前国風土記逸文
塢舸水門(万葉集註釈 1269)
塢舸の県。県の東の側近く、大江の口あり。名を塢舸の水門と曰ふ。大船を容るるに堪へたり。彼より島、鳥旗の澳に通ふ。名を岫門と曰ふ。小船を容るるに堪へたり。
岡の港は一般的には遠賀川河口に比定されるが、穴門の南口、北九州市小倉南区横代南町の高倉八幡神社である。大江はかつて入り江だった竹馬川下流域を指すか。
「澳」には「沖」という意味もあるが、「入り江の奥」という意味もある。
鳥旗(戸畑)の入り江の奥に通うのは、到安方運河である(到:小倉北区上到津、安方:戸畑区菅原)。
隣接する二つの運河は、大型船の通れる「穴門」、小型船しか通れない「岫門」という対比で呼ばれていたのかもしれない。
なお、「島」についてはかつて島郷と呼ばれた若松に比定するのが一般的だが、「到」の別名「玉島」のことだと考える。すると、「島・鳥旗の澳に通ふ」はそのまま「到と安方に通ふ」と解釈できる。
そして、最大の暗号は「おか」の漢字表記である。
「塢」は土手、「舸」は大型の船。船のための土手とは、まさに運河のことであろう。